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Posted by TI-DA at

2015年06月24日

真実の叫び MARIE 

1. まりこーぐぁー

沖縄で生まれ基地の町の象徴とされ オキナワンロックの女王と呼ばれたマリー
1970年代 ベトナム戦争の傷が癒やされないアメリカ兵相手に 
喉から血を吐きながら歌う彼女のシァウトは魂の叫びだと。

マスコミは時に誤った報道により、聞くもの見るものに先入観を与える。
私は何のために歌ってきたのか?
私はなぜ沖縄に生まれたのか?
私と言う女性はどんな女なのか?
私はなぜ混血 ?
真実を語ろう。

17才 ベトナム戦の終焉を迎えようとする頃、
アメリカ兵士の為に歌う ROCKボーカリスト、
いや あの時代に私と言うものが存在したから 必然的にそう成ったのか、
違う場所違う環境であればどんな人生を生きてきたのか、
生まれてくる場所を選べない人間には それぞれの人生模様がある。
たとえ不平等だと思えても受け入れないといけない。

私は沖縄県中城村で生まれた。
父の覧は空白、私生児。
兄弟も無、母と娘、二人だけの戸籍、
そこから母と娘のそれぞれの人生が始まる。
戸籍があるだけまだマシだよと、ある人に言われたことがある。
私の年代で生まれた混血児達には
無国籍でほったらかされる人たちが大勢いたからだ。

沖縄県中城村には、サトウキビ畑と子供の足でもそんな遠くない海岸がある。
母の実家は、戦前氏が比嘉、集落での屋号ではメーヒジァグァーと
呼ばれていた。戦後、祖父が現在氏に変えたと、最近耳にした。
当時は誰でも簡単に氏名の変更が出来たと叔母が話していた。
私の記憶の中にしっかりと刻まれた故郷は、広い敷地に大きな
ガジュマルの木、バナナやグワバ パパイヤ、
離れに山羊小屋 豚小屋とあって、私のお気に入りはおじぃちゃんが作ってくれた
ガジュマルの木の上の小屋 それから山羊小屋だった。

アメリカーといじめられ泣いて帰って来た時の隠れ家 オヤシスでもあった。
ガジュマルの木には キジムナー(大木に宿る精霊)が宿っていて 
大きく成長したガジュマルの木には釘を打つ。
キジムナーが人間に悪さをしない為だと祖父は話していた。
どんな悪さをするのか?夜中にガジュマルからキジムナーが抜け出してきて
熟睡中の人間の上に覆い被さる。 
キジムナーは、物凄く重いのでビクとも動けないよーと、
ウチナーンチュは言い聞かされている。

どの家にも大きなガジュマルがあった時代,皆がそれを信じていた。
キジムナーにウサーサリネーひーひれー,
(動けなくなったらおならをしなさい)
逃げていくさー、と対処方法も教えてくれた。

母は13人兄弟で,そのうちの二人だけが男 残りの11人は女
その当時では珍しくない大変な子沢山貧乏 
そのわりには果物には恵まれていたような気がする。が、
全部生活のための売り物だったと。

祖父は、村一番のハンサムで空手とサンシンが得意だったそうだ。
きび畑に時々私を連れて行き サトウキビの甘い汁をごちそうしてくれた。
大きな自転車の後ろに乗せてもらい、沖縄幽霊の話で私を脅かすのが
楽しみな祖父。
あの頃の沖縄には、マジムン(妖怪 幽霊 この世には存在しない物体)
が沢山いた。現代は夜でも昼間のように明るい。マジムン達には暮らしにくい
世の中になり何処かへ行ってしまったらしい。
キジムナーは私の仲良しの一人で、ガジュマルの木の上の小屋で独り言をいう 
私を心配した祖父は,何本もの釘を打ちつけていた。
記憶の中の幻想 キジムナーは確かに居た。

沖縄戦で一人の息子を失い、もう一人の息子も戦後に亡くして
しまったが、 残る11人の女たちはいつも朗らかで活気が溢れ、
賑やかな叔母たちと過ごした幼少のころの思い出には、
楽しいことがいっぱい詰まってる。

祖母は逞しい沖縄のアンマー、13人の子供を産み育てながら
鰹節売りをしていた。
朝も暗いうちに家を出て,大きな盥一杯の鰹節を頭に乗せ徒歩で売って歩く。
夜が更けたころ、小銭いっぱいの袋を抱えパンパンに張れた足で帰って来た。  
集落からさほど遠くはない、中城公園の動物園には 
その頃大きな象がいた。初めて見る象の足がオバーの足に見えたほど、
祖母の足は膨れ上がっていた事を憶える。
鰹売りのオバーは一日中歩き回り稼いできた小銭を御座の上に広げ
「とーまりこーぐぁー、数えて見てごらん 」と私を呼んだ。
私は一銭 二銭と小銭を数えるのが楽しくて
日暮にはオバーの帰りを待ちわびていた。

そんな忙しい祖母の代りに子供たちを見てくれていたのが、
祖父の母親であるヒ叔母だ。
私はヒ叔母の事をバーサンと呼んでいたが、バーサンは腰が直角に曲がっていて 
座ったときにはまったく気がつかない。しかし、立ち上がるとそのままの状態で
起き上がる、つまり 目線が地面を向くということだ。
バーサンは神様みたいな人だったねー、と 
今でも叔母たちは バーサンの話が出ると笑みを浮かべる。
あの不自由な体で朝から晩まで働いていた。
実際、私の記憶の中にもバーサンが休んでいるのを見たことがない。

ちかくの海岸から塩水を汲んで来て豆腐を作る、
石臼で大豆を引き生地の大きな袋に大豆と塩水、真水を入れ庭先に吊るしておくのだ。
今に憶え、以上なほど曲がった腰で、そんなことが出来たのを不思議に思えてならない。
バーサンの後を追い一緒に塩水を汲みに行った、帰りの道で必ずサングァーを
樽の中に入れる。サングァーは魔よけだ。
ススキの葉っぱを折り曲げてしばり,あとからマジムンが追ってこないようにと
バーサンが話していた。
サングァーはシーミー(清明祭)などで祖先の供養のためにお墓に持っていく
重箱のクァッチー(ごちそう)にも入っていた。 


2、カーサームーチーとおばぁー

沖縄には、私の大好物の餅がある。
カーサームーチー〈月桃の葉でくるんだ餅を蒸す)だ。
旧正も終え、沖縄でも一番寒い時期にそのお餅は出番だ。
小さい私はその日が来る日を毎年待ち望んでいた。
その日も近づくと祖母は鰹節売りを休み、山に向かう準備をしていた。
「まりこーもいくー!」と、祖母に置いて行かれないように、
周りをウロウロする私に祖母が言う。

「山や草ぼうーぼうーし、ハブ、いじーンドー。」
(草木が生えっぱなしの山には蛇が出るよう)
と、私がまだ小さいので危険だと、祖母は私に留守番をするようにと言っていたが、
飼い主の後を追う犬のように、祖母の後について歩く私を仕方なく
連れて行くことになる。
そんな具合で祖母の後をついて行く私は次第に、
サンニン(月桃の葉)取り名人となり、
祖父がこさえてくれた、ハブよけの長靴を履いて山に向かったものだ。
祖母が言う山のハブは、時々見かけたりしたが、一回も噛みつかれた事はない。
先頭を歩く祖母は棒切れでトントン音を鳴らしながら歩いていた。
どうやらハブに、道を通りますよ!と知らせていたのだ。

あの頃、月桃の葉は近くの山にいくらでも生えていたが、
最近では数も少なくなり、農家で育て市場に出るようになったようだ。
祖母と私は、100枚位の葉を山に取りに行き、
家の井戸場で葉を一枚一枚丁寧に洗う。
カーサームーチーをおいしく頂くための作業だ。
バーサンと祖父は、大量の島米を丹念に洗い撒きで炊く。
炊きあがった島米は庭先から聞こえてくるトン、ト、トン、ト、というリズムと共に
真っ白なお餅に変わって行った。

一枚一枚と月桃の葉で包んだ餅を大きな鍋で蒸す。
月桃の香りが村中に漂い、その日は子供たちにとって最高に嬉しい日なのだ。
毎年自分の歳の数が増えるごとにムーチーも増えて行く。
カーサームーチーは自分の歳の数頂いて,紐で縦に並べ縛り壁に吊るしておくのだ。
マ(ル)コーと私の事を呼んで愛してくれたバーサンは,私の歳の数では餅も
少ないと、出来たての餅を台所で多めに分けてくれた。
貧乏でも、お腹をすかした事がなかったように思える。
祖父や祖母、バーサンは、いつでも私の事を思ってくれて居たのだ。

海岸側とは反対の西の山に月桃の葉を取りに行くのだが
その山(丘)には、我が家先祖代々と続く亀こう墓がある。
丘の曲がりくねった坂をどんどん登って行くと、
やがて壮大な美しい海原が見渡せる。
太陽の光でキラキラと輝くエメラルドグリーンの海は、
父の国と母の国をつなぐ聖なる海原だ。
そんな最高の景色を見渡せる位置で、先祖は永遠の眠りに入る。

3、シーミー(お盆)

清明祭や旧盆の前には、お墓の草刈りと掃除に精を出す村の人達が
丘の曲がりくねった細道を行き来していた。
お盆の日に祖先が迷子に成らずに無事、家にたどり着くようにと
道をつくってあげてるんだよ、と、祖母から聞いた。
お墓まわりの草木や木々がきれいに刈り取られた丘の風景は、
まるで床屋さん帰りのように、すっきりと変身する。

先祖の霊はお盆の日が来る事を待ちわび、私たち子孫も
祖先の霊が家でゆっくり出来るようおもてなしをした。
仏壇には、亡くなった二人の息子と祖先の写真が
位牌と共に飾られていた。祖父に良く似た叔父達の面影は非常にハンサムだ。
お盆の初日には、お帰りなさいと叔父達の写真に声をかけていた私だが、
物言わぬ写真の叔父達は、ちゃんと答えてくれていたような気がした。

祖母と一緒に、沢山のお供え物をし、仏壇に手をあわせ、
にぎやかな叔母たちも嫁入り先から実家に帰ってきた。
オジーの手作り、サトウキビで作った杖が仏壇の両端に供えられる。
お盆の三日の遅い晩に、仏壇に(ウサンデーサビラ)
(いただきます)と手を合わせ、お供え物は私達の御馳走となるが、
祖先のためのお供え物が、そのまま重箱に残っている事で、
私は変な事を祖母に聞いたことがある。叔父さん達何もたべてないよ~?と。
そんな変な質問にも面倒くさからず、祖母は返事を返す。

「あの世では、食べるものもいっぱいあるからさー、少しだけ食べて、
この世で生きる私たちの為に残してあるわけさー。」と言う、
そんな祖母の言葉に反応する私は、重箱の御馳走を眺めながら
1,2,3、と数えたが、
その仕草を見る隣の祖父は、にやにやしながら煙草を吹かしていた。

仏壇の両端に供えられたサトウキビはまだ供えられていた。
私はお盆の初日にそのお供え物のサトウキビを食べたことがあって、
そんな私に、祖父はあきれた様子で話していた。
「イェー、まりこ^ぐぁー、ウーくい(お盆の三日目)
が終わるまで食べないでよー、」と。

そのサトウキビの棒は、祖先が墓へと戻る途中、
山道の険しさで転ばぬようにと使う杖だと。
「グーサンヤ、まりこーぐぁーが、カディ、ねーランンさー」
(杖は、まりこーが食べてしまったから無い。)叔父さん達に怒られるよー、と。
そんな事を祖父は話しながらも、庭先で新しい杖を作り始めて居た。

暗い山道にはハブがうようよ居るし、祖母のように地面を叩きながら、
先祖たちは帰って行くのだと、私は一人で想像していたが、
またもや祖父の言う事を信じて疑わない私は、その夜、
二人の叔父と先祖たちに怒られる夢を見てしまったのだ。
現実のようなその夢は、御蔭で私を良い子にしてくれた。
それからはお供え物のサトウキビを大事にし、誰かに食べられないようにと
うーくいが終わるまで見張っていたものだ。

祖父は語り人のように物事を話す人なので、作り話がリアルに聞こえてくる。
何事にも興味があり想像力に耽る私は、あらゆる事を質問、
なんでねー?を繰り返す女の子でもあった。
「まりこ^ぐぁーはいつも変なこと聞くね~?」と
叔母たちからはうるさがられ、知らん振りをされるのが毎度のことだ。
それもそのはず、叔母達は、おしゃべりをするのに忙しくて、
とても私の質問に答える暇など無い。

いよいよ祖先が帰る時刻になると、庭の隅で(ウチカビ)という、紙が燃やされ、
そのウチカビが燃え尽きる頃、泡盛で清められる。
祖母は何かぼそぼそとお祈りを唱えていたが、また来年ね、
と祖先に話すかのように聞こえた。
ウチカビには、丸いコインの形を何個も押していく。グソウ「あの世)のお金だと
祖母が教えてくれたが、祖母は手なれたように
あっという早業であの世のお金というものを何枚も製造していく。
おこずかいも頂き、最後に杖も準備され、
祖先達は亀こう墓へと帰って行ったのだ。


4、アメリカーワラバー

お盆の夜は女達の声が賑やかに響き、その会話は朝方まで懲りずに話している。
女達の会話に圧倒され、親戚から集まった数少ない男達は実に大人しくしていた。
その光景は今でも変わらず、久々の姉妹の集いとなると、待ってました!
と、言わんばかりに元気な姿で夜更けまで会話を楽しむ叔母たちなのだ。
叔母達のパワーは、祖母から受け継いだ源のように思えて成らない。

沖縄のアンマァー(お母ぁー)達は働き物だ。
男には頼らずとも生きる力が漲る。
村には元気なアンマァーたちが沢山いて 戦後の貧乏を吹き飛ばすかのように 
背いっぱい、明るく生きる風景があった。

村でも一段と賑やかな姉妹達、その姉妹の中でも怖がりで
臆病な女は私の母だったと、叔母達はいう。
怖がりで臆病な母がアメリカーの子を産むことになるなんて、
運命というのは解らない。

祖母や叔母たちは、私の事をまりこーぐぁーと呼んで可愛がってくれた。
ウチナーぐちで,まりこー(ぐぁー)、の(ぐぁー)は小さいという意味、
可愛いという意味がある。
泣き虫で怖がり。いつも小さい手にお芋を持っていたそうだ。
陽気な叔母たちの御蔭で,いじめっ子が居ても取り立てて悲しい思いをした
記憶が無い。
母の代りに、小さいまりこーぐぁーを精いっぱい愛してくれる、
叔母達が居てくれたことで、家の中では、
おお泣きしたり、笑ったり、痛面したりで、子供らしい生活を楽しんでいた。
         
村には,まりこーぐぁーと似たような顔は見かけなかったようだ。
物心を着いた頃、アメリカートーアシバンドウー(アメリカ人とは遊ばない)
と、近所のいじめっ子たちから仲間外れにされ、
自分の顔が皆と違うという事を意識し始めた。
おまけに私は肌が弱く、頭のてっぺんから足先まで出来物がいっぱいだった。
その蚤だらけの頭は蚤退治の為に丸坊主にされ、
DDT紛いの薬品と赤チンキで、可愛いどころか、ヘーガサー、アメリカー
(おできだらけのアメリカ人)と、言われる始末。
 
1986年に利根川さんが書いた(喜屋武マリーの青春)では
祖母が赤毛を隠すために頭を丸刈りにした。と書かれているのは間違いだ。
オバーの名誉のために正しておこう。
私の頭が非常に痒くて、掻き毟るたびに赤チンキを塗ってくれていた祖母。
かわいいそうなまりこぐぁーよー、と嘆いていたのである。
坊主頭の女の子はまたいじめられると思い、大きな帽子をかぶせてくれたのだ。
アメリカーハニーの子供だと隠す為では無かった。
私は、祖父や祖母、ヒ叔母の愛情に守られ育った。
混血児であろうが、父の無い子であろうが、わけ隔てのない愛だ。

私は青い目と赤毛の女の子ではなかった。
生まれた時から 黒い瞳と、黒い髪の毛の女の子だ。
ヒージャーヌミーとハーフの子達をいじめる悪がきも居たが
ヒージャーとは、ヤギの事で ミー、は眼の事
ヤギの目はブルー色 アメリカーの瞳もブルー色、という事で、 
アメリカーハニーが生んだ子は、青い目に赤毛だという先入感を持っていたのだ。

時々集落に真っ赤な口紅をした女がやってきたが、
その女が母親だとは、後に祖母から知らされた。
アメリカハニーになってコザに住んでいた女は時々現れ、 
「まりこー、美味しいもの食べさせるよー。遊びにいくねー?」と、
言い私を連れ出した。

母親だとは知らないままにその女の言葉に「うん、」と答える。
小さい頃からおしゃれだった私には、その女が誰なのかあまり気にならない。  
可愛い服を持って来てくれたことが、ただ嬉しかった。
そんな私のおしゃれ心は叔母達の影響とも言えるが、
そのおしゃれ心のせいなのか、私は大事件を起こした事がある。

ある日の午後、家の広間に一枚のワンピースが壁に掛けられていた。
私はそのワンピースの花柄にみとれ、何を思ったかはさみを入れ始めたのだ。
壁に掛けられた花柄のワンピースが余りにもきれいなので、
自分サイズに作りなおしそうとでも思ったのか、針と糸も準備していた。
その時だ、若い叔母が帰ってきたのだ

叔母は、私を見るなり、まりこー!と凄い大きな声で叫んでいた。
すでに半分ほどにハサミを入れられたワンピースを取り上げ、叔母は喚いている。
今に思えばどうやって裁断、仕上げようかと思っていたのか?不思議ではあるが、
とにかく、壁の花柄ワンピースは私のワンピースに変身しつつあった。

叔母はバーサンと大声を出し,自分の服がこんな事になっていると、
信じられない出来事で、今にも泣きだしそうだ。
バーサンの後ろに隠れて、自分がした事に対して訳も分からず、
ただ泣いていただけの私であったが、
未だにどうしてあんなことをしたのか?解らないままだ。
その後、叔母は落ち込んではいたが、二度とそんなことしないでね、と
私に誓いの言葉を、繰り返し、繰り返し何回も言わせた。
若い叔母のその花柄のワンピースは、
明日の遠足の為にと祖母が買って来てくれた、一番新しい服であった。
そんな訳で、若い叔母のワンピースは私の想像力の犠牲となったのだ。

当時、私が持っていた一番のかわいい服は米軍のパラシュートで
叔母が縫ってくれた服。
叔母が裁縫をするたびに横で見て居た私は、自分でも出来ると
思っていたのだろう。
赤と白のラッカサン(パラシュート)の布を使って叔母がかわいいドレスを
作ってくれた事でお出かけ用のそのドレスは、私のお気に入りだ。
その服を着て写る、セピア色の古い写真が残っているが、
お気に入りの服を着ている割には笑顔がない。
どの写真をみても、厳しい目をした幼少の頃の私がいる。
(まりこ^ぐぁー)は、何を思っていたのであろうか。

アメリカーハニー達は、時々大きな人物を引き連れて集落にやってくる。
もう、村には住めない娘たち、それでも彼女等は村恋しさに募る。
おおきな紙袋にどっさりと入った米軍たちの食糧らしき物を抱えて
誇らしげに村の人達に配っていた。貧しい村では、有り難い事なのだ。
この世のものとは思えない御馳走が運ばれてきた。
アメリカーの子を産んだ村の娘が持ってきた。
年ごろの娘たちはアメリカーハニーに憧れる。そしてコザの町へ。
生きていく為に取った手段は、批難へと変わる。村の男たちの嫉妬なのか?
真っ赤な口紅とペチコート付きのドレスは、自分へのご褒美だろう。
母が私を訪ねるたびになんてきれいな人だろうと、憧れたものだ。






  


Posted by Asian Rose Marie at 03:50Comments(3)kyan Marie 自伝

2015年08月06日

真実の叫び2 混血児

愛の子 ≪あいのこー≫

《あいのこ》漢字では、愛の子と書くのだろうか?
愛の子と書くのであればこの世に愛を持って生れてきたのでは
ないのだろうか?
沖縄戦から生じた 愛、の、子、達
悲劇な戦争の落とし子なのだから非難されるのはおかしい話だ。
(愛の子)私なりの解釈ではあるがそのように書くとしよう。

母はアメリカーの大きな車に私を乗せ,良くコザの町へ連れて行ってくれた。
母に連れだされるたびに,母の連れのアメリカーと私の顔立ちが同じように思えて
アメリカーはこんな顔をしてるんだー、と鏡に映る自分を見た。
コザの町では私と同じ顔をしたアメリカーを大勢見た。
町はアメリカに乗っ取られたかのように《アメリカ》その物だ。
村では絶対に届かない物が溢れる街、見る者聞くものが初めてなので 
違う国まで来てしまったのか?と思える。
母は行く先々で私の妹です。と私の事を紹介していたが、
それならばオバーが私を産んだことになる。
今にして考えると,鰹売りのオバーは凄いことになる?と、
思わず噴き出してしまった。

私よりも年上らしき愛の子達をコザの町で見かけた。 
この世で私一人だけが混血児だと思っていたので、
なんだか親近感を彼らに感じた。
沖縄戦後に生まれて来た,私よりも先輩の混血児達。
もう70歳を超えてこの世から去った人もいる。
アメリカーと言われ戦後を生き抜いてきた混血児達はどんな心思いで
戦後を潜り抜けてきたのだろう。
まさにお天と様と正反対の暗闇を潜り抜けてきたのか?
運がいい子はアメリカ人の子になり運が悪ければ誰の子ねー?
ヤナアメリカーワラバー、
(汚らしいアメリカーの子)。
子ができたら、生むしかない時代。
現代みたいにできちゃった結婚や国際結婚が簡単にはいかない時代、 
アメリカーの子が出来たらイチムンヌ、恥どー(一家の恥だ)。

戦後の混血児達は非難され差別された、
戦争の落とし語であるが故に罪を背負った子, だと責められた。
沖縄の混血児達はどんな罪を背負ったのか? 
解けない疑問が私の頭を過ぎる。
 
生んではいけない子を産んだ母親たちは,どれだけ悩まされたのであろう?
子を宿したそれぞれの女達の人生、中には強姦され宿した子もいる。
いつかは結婚して米国へと希望の中で宿した子もいる。
母性とはどんな事情の子でも守りたくなることだ。

母から聞いた話だが、私を身ごもったとき流産させようと
3日3晩海に浸かって居た。
それでもあんたは下りなくてよー、
闇産婦人科に行ったんだけど,そこには中絶して死んだ友達がいたさー、
怖くなったからあんたを仕方なく産んだわけサー、と。
母はそんな事を冗句のように笑いながら話してた。
そんな母に対して懸念軽蔑など何も感じず一緒に笑っていた自分が奇妙である。
私が母と会話が出来るようになったのは、中学生くらいの頃からだ。
母は時々生きる事に疲れた、早く死にたいもんだよーと、口走っていた。

戦後の女たちの悲しさを彼女なりに表現していたのか?。
臆病な母はそう言いながらも死んだら地獄生きかなー
と死を怖がっていたりもしていた。
11人の姉妹の中で一番早くあの世へと旅立っていった。
50歳の早すぎる突然の死だった。

米国の混血児と沖縄のアメリカーの子との違いが沖縄にはあった。
米国の混血児をあいのこーなんて呼ばない。顔立ちにピッタリの英語で話す。
沖縄のアメリカーの子はアメリカー顔とは釣り合わない
うちなーぐち言葉で話す。
顔に似合わずウチナーグチ上手だねー!と度々言われた事がある。

私はアメリカの子が羨ましくアメリカの子にしてくれー!と叫んでいた。
Marie発シヤウト! 誰にも届かない心の叫び。 
幼少のころに写る鋭い眼は、そんな事を語りたかったのか? 

オバーの家には、一緒に住んでいた従兄妹の子が何人かいた。
ひとつ年下の従妹の女の子は、私の大の仲良し。 
ひとつ年上の にーにーは、いたずら大好きでやんちゃな元気な男の子。
「まりこーは すぐ泣くからあそばんさー 、」
「おじーにおこられるからさー 、まりこー泣かしたらさー。」と言っていた。
にーにー!ありがとう. もう全然会ったことないけど元気してるのかなー? 
ふるさとの事を想うと、どうしてもウチナー言葉で表現したくなる。
ウチナーグチって暖かい。故郷の思い出は幾つになっても親しみがある。

仲良しの女の子の母親がある日やってきて、
彼女は私より先にアメリカの子になった。いとこの子は沖縄の子だ。
顔もアメリカーじゃない父親も沖縄の人だ。
私みたいに父親の覧は空白ではない。
だのに、、どうして?

そのうち、もう一人のやんちゃな男の子も母親が迎えに来た。
私の母は迎えに来てくれない。一人取り残されたような寂しさと同時に、
母親の再婚でアメリカの子になった仲良しの女の子が羨ましく思えた。
いつかは私のママも来てくれるのかなー、?と
ガジュマルの木の上で従妹の子にバイバイをした。

わたしが6歳の頃だと思う、母親のところに連れていくさー、と 
オバーは私の少ない荷物を持って「ハイ!イツュンドー」 (行くようー)と、
厳しい目をして私に言った、
母親とはあの女の事だと薄々は感じてはいたが、
無言のままオバーの後についていった。

中城村からコザへと向かうバスは鼻が尖ったバスだ。
大きなガマグチみたいな鞄を、肩に掛けた車掌に小銭を渡しオバーと一緒に
バスへ乗り込んだ。バスは中城公園の周りを走って行く。 
ガタンガタンと大きな音を立てながら山道を登る。
木々が生い茂る山道、幾つもの崖のある細い道を大きく車体を揺らしながら 
どんどん先へ進む。バスにはめったに乗らないので、
崖の辺に来るとバスが落ちないかと心配に成った私は、 
バスの窓から外の崖ぶちを見ていた。無言のままバスからの風景を眺めていたが、 
これから母親たる人物に会いに行くという感覚は無かった。
 
オバーは、こっくりこっくりとバスに身を預け居眠りをしている。
鰹売りで遠くの町へと足を延ばす日に、
バスを利用する祖母にとって一休み出来る唯一の空間なのだ。
段々とうっすらと日が暮れる中、あたりに灯りがきらきら輝いて
間もなくバスはコザの町へ着いた。
オバーがいきなりおりるよー!と起き上ったので あれ?居眠りしていたんじゃー?と。
オバーは居眠りしながらまりこーぐぁーを母親のところに置いていくことを 
考えていたのか?

コザの町は相変わらず異国の町だ。
至る所に英字で書かれた看板が暗闇では一段と眩しく華やかだ。
ざわめく人々の言葉はアルファベット。 
Aサインバーといわれる米軍相手のバーが、繁華街に何軒も立ち並び
バーの入り口で着飾った沖縄の若い娘たちが、自分の丈より倍もある
アメリカーにしがみつき、たどたどしいアメリカ口で、(カムヒヤ~)とか言い、 
真っ赤な口紅で笑顔を振りまき、若い米兵と店の中へと消えていく。

着飾る娘たち誰もが私には母親に映った。
一軒のバーに50人位の娘たちがアメリカー相手に働く。
戦後のコザの町は貧乏から救ってくれる町でもあった。
村のあちらこちらからコザの町を目指す、出稼ぎだ。

人は食いぶちを探さないと生きていけない。
食いぶちを求めて新開地へと移動するのが、人間の摂理だ。
はるか人類誕生の時を経て、知恵を持ち人は生き延びて来た。
食いぶちは村の娘 敵国に笑顔を振りまき身体を差し出す娘たち 
嘆いてばかりは居られない。覚悟はきめたのだから。
敵国に悲劇を貰い敵国から救われる。敵国とはなんだろう?
人は順応する生き物だから、その場所場面で敵になったり味方になったりする。
真実はすべてが真実ではない。心に偶像を作りあげ真実の創造を
行ったり来たりしながら人は生きていくのだ、と私は思う。

Aサインバーの奥から映画のワンシーンのように母は現れた。
真っ赤な口紅が鮮やかに映え、ペチコートで膨らませたフワフワのスカート
白のブラウス、 オードリーヘップバーンに良く似た女は
ベリイーショートのヘヤースタイルをしていた。

私が母を女と書くには、その頃の心情を表現するにしか過ぎない。
母親ですよ、と言われ母を認識しても母親との密接な関係が持てない
小さい私には、女と表現するしか方法が見つからなかった。
むしろいつも側にいてくれた叔母様達の方に安心感を持てた。
母親ですよ。と言われても素直にママー!なんて言えない。
叔母達よりも遠い存在感の母をどう受け止めたらいいのか。

バーのネオンの下でオバーは言った。
「ターワラバーやが!ヤーヌワラバードゥドー!ウチケーイクトゥヤー!」
(誰の子ねー あんたの子でしょう? おいて帰るからね)
祖母は興奮した口調で母に喚く。
 
祖母の態度は凛としていて一歩も譲らないかのようだ。 
その女は困り果てた様子で何か言い返していたが、
どういうわけかその部分だけポッカリと記憶に無い。
どうしても思い出せない。
祖母があれほど真剣な態度で話している事で、
私はこの町に置いて行かれるのかな~?
と、考えていたが一向におさまらない会話に答えを出せないまま、
二人は言い争う。

そんな二人の会話をそっちのけに、通りに溢れるアメリカーを見ていた私、
米兵達はにこやかな顔で私に声を掛けてくる。
ガムやチョコレートを渡す米兵もいたりして、私の興味は母と祖母より、
アメリカー達が示す私への好意に気が向いていたのだ。
米軍のパラシュートで作ったお気に入りの服で
ネオンの下に立つハーフの女の子、(まりこーぐぁー)を米兵達の目にはどのように
映ったのだろうか?
アメリカー達の顔にはスマイルという平和が満ち溢れ、
祖母と母の葛藤など誰も気に留めなかったようだ。

(ハーイ、baby-!)という米兵の声は人見知りをする私に向けられた。
米兵達に連れて行かれるのでは?と急に怖くなった。
アメリカ人に対しての私の感覚は、父親への想いと憧れはあったものの、
間近で見るアメリカーはとても大きく、空を見上げるくらいにそびえ立つ人物で、
やはり馴染めない異国人であった。

あの頃、私がもっとも安心感を得られた場所は、
いじめっ子が居る村の集落であり、祖父や祖母の居る家なのだ。
一刻も早く帰りたいと、私は祖母の手を引っ張り、
「オバー、帰ろう、帰ろう」と,言いつづけた。
今にも泣きだしそうに成る私に祖母は困った様子ではいたが、
「まりこー、ケーインドー、」(まりこー、帰るよ、)と、
私の手を握り絞め、何事も無かったように優しい祖母に戻った。

ネオンがきらめくアメリカ人の町を離れ帰りのバスに乗った私たち
祖母は、コックリ、コックリと居眠りを始めたがそんな祖母に寄り添うように、
いつの間にか私も眠りに落ちて行った。
祖母の匂いは安心の匂い、私を優しく包んでくれる。
祖母はどんなに辛い事があろうと私に辛く当たる事は無かった。

母との会話は、きっとひどい物だったに違いない。
小さい私に心配させまいと、気を持ち直してくれた祖母。
私を庇おうとする祖母の愛は、人を思いやるという心を私に教えてくれた。
翌朝、村のいじめっ子たちはいつものように私をからかい始めたが、
いつもの集落の暮らしにほっとする私が居て、泣き虫の(まりこーぐぁー)は、
アメリカーヒャー!アイノコーグァーヒァー、アメリカに帰れ!と
いじめっ子達の声に追っかけられながら、小学校へと入学した。


  


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2015年08月07日

真実の叫び3  ウチナー台風

.ウチナー台風

母の出産と同時に、私はオバーの家に居たのだと疑うことなく今まで信じていた。
母は私を実家で産み落とし直ぐにコザの町へ戻ったと。 
山羊の乳であんたは育ったと、そのように祖母から聞かされていた。
最近そのことに疑問を感じた。
ある日、久々に叔母たちとの再会、田舎暮らしの昔話で花がさいた。

不思議なことに、私の幼少のころの話になると私が2歳ごろからの話になる。
今では一番上の叔母が90歳一番末は70歳を超えた。
母の姉妹達は私がどこで生まれたか?赤ちゃんの頃はどんなだった?
誰も良く知らないと言う。
上の姉さんだったら分かるかも?私とは年があまり離れてない叔母が言った。
しかし年上の叔母たちには無理がある。
元気では居るが、近頃はだいぶ呆けて会話があっちこっち行ったり来たりだ。
あー私も何時かはこんなになるのだー、と歳を取ると言う意味を知らされるだけだ。

そんな中 私の母親代りをずっと引き受けてくれた叔母が言った。
「まりこー、あんたはコザで生まれたんだよー、」 
山羊の乳じゃなく母の母乳で育ったんだよー」
実の母よりも母親として私を親身に育ててくれた叔母、彼女もまた子沢山の母親だ。 
戦後から少し落ち着いた時代とはいえ、まだまだ貧乏な時代。 
私に新しい服をこしらえ、いつも心配してくれた叔母
自分が生んだ実の娘のように私を可愛いがってくれた。

1981年マリー初のアルバム(Marie live)を発売と同時に、
私は沖縄から本土へと活動の場を広げた。
私の宣伝文句が沖縄台風本土上陸!と唄われていた。
ウチナー台風は非常に勢力が強いとの意味あいだ。
私の生まれるその晩も強い台風が吹き荒れ、母の話によると嵐で屋根も吹き飛ばされ
暗闇の中 雨でビショビショになりへその緒が繋がったまま大雨の中、流されていったと。
アンシが、ヤーヤ、ツューバードー、イチチョータサ。
(あんたは強い子でね、それでも生きていた。)
母は物語を何倍ものスケールで話す人だった。

叔母は淡々と語り始めた、
コザの町のAサインバーで、アメリカ兵相手に働く母はまもなく私を身ごもった。
その頃はよくあることで『たくさんのアメリカーワラバーが生まれたようー』、
母は19才で私を身ごもりお腹が目立つ頃になると店にも出れなく大変困っていたそうだ。
お腹のせり出した娘は村にも戻れず、コザの町に隠れ一人で子を産むことになる。
どこのアメリカーの子を生むのか分からない、
そんな娘でも母親(オバー)は心配して居てくれていたようだ。
オバーは愚痴を言いながら母の妹に様子を見てくるようにと言い付ける。

「ハッサ!コザまで遠かったさー、」
「バスに乗って胡座十字路で降りてから馬車に乗り換えるわけさー。」
「あんたがいつ産まれるかわからんから心配でさー、毎日通っていたようー。」
私を小さい時から面倒みてくれた叔母、いやいや生まれる前から
私の面倒を見ていたことに驚きの感謝だ。
確かに台風の晩ではあるが、屋根はあったようーと、笑っていた。

母のお腹が目立ち、仕事に行けない母を心配してくれる大変親切な軍人が
母に食糧とお金を渡していたと言う。
もしかしてその人が私の父親?叔母は首を横に振った。
「その人 ほんとにいい人でさー 若いウチナー娘がアメリカーの子を身ごもった事に
責任をかんじたわけさー、同じアメリカー兵隊達がしたことに対してさー、」
私はその親切な軍人に会いたい。私の父親で有って欲しいとも思った。
叔母は言う 「絶対違うよー、その人は店に来る親切な客であんたの父親じゃないよ、
ねーねー(母)も言っていたよ、この人の子じぁないって。

私は40歳になってはじめてアメリカへ行った。
アメリカにあこがれ洋楽に魅了されROCKボーカリストとなった私にとって
随分遅い渡米だ。
ドキメンタリー番組「人間劇場、制作オルタス.星野敏子)からの出演依頼、
その番組の御蔭でもう一人の叔母との再開も果たすことができた
母の妹の叔母が渡米してから30年ぶりの再会となる。
父親探しが目的ではあったが、私のルーツとやらを探る番組でもあった。

母から聞いた話を頼りに番組制作スタッフ一同となり父親探す。
現地のアメリカ人も親身に協力してくれた。 
1950年に沖縄から朝鮮戦争へ向かわされた軍人を隈なく探した。
母が教えてくれた、父の名アメリカ海軍の服を纏った一枚の顔写真。
全部が真実では無いのかも?渡米する前から疑問を抱いていた私ではあるが、
不安の中にも父親との再会を願っていた。父親らしき人は現れなかった。

続いて私達は国内線を乗り継ぎ、叔母が住むコロラドへと向かった。
小さい時に、ガジュマルの木の上でバイバイした女の子の母親だ。
叔母から従妹の女の子は、結婚してハワイに住むと聞かされ彼女の事が頭を過ぎった。
もうあの頃の事はきっと覚えてないね?忘れてしまったね?

随分小さいころにアメリカ人となった従妹の子には、
ウチナーンチュよりもアメリカ人として生きる方が幸せだったと思う。
村での出来事は、彼女から思えば遠い過去の話しで幻のような物だ。
私のように沖縄で暮らす混血児の人生とは違う。
彼女なりのアメリカ人らしい人生模様が描かれたに違いない。
母のすぐ下の妹である叔母は、私の突然の訪問に驚いて歓喜の涙を流していた。
叔母の夫であるアメリカ軍人の叔父との再会
叔父は私の身の上を哀れに思い、自分たちの養女として迎えようとしてくれた。
あの頃沖縄に駐留していたアメリカ軍人として、私に対し複雑な心情でいたのかも知れない。

叔母は続けて話した。 
「朝鮮戦争には、行ってないかもよ~、アメリカに帰ったんじゃないかね~?」
母が亡くなった今、真実は封印されてしまった。
イタリア系アメリカ軍人朝鮮戦争へと駆りだされる前に母は私を身ごもり 、
帰ったら結婚して本国へ行くBabyが女の子だったら
Mariaという名に,そのような約束を交わし
Mariaと命名したかったけど、区役所で『アメリカーワラバーねー?』と嫌な顔をされ
まり子にしたと。母はそんな事を私に話していたのだ。

母が父親らしき人物の写真を、私に見せてくれて話して居た事は
彼女の理想と夢物語であったのか?
『あんたは誰の子かわからんさー、』と娘に言えない母の優しさか?
子を思いやる母の企み、そんな事などどうでもいい。
苦難の思いで私を産んでくれたことに感謝する。
臆病で弱い女から 子を守る強い母だと信じる。
母が亡くなる最後まで、とうとうママとは呼べずにいた
父親が誰でもかまわないからサー!まりこーや大丈夫やさ!
う~んと 長生きして欲しかったよ!お母さん。

悪戯っぽい母の声が天国から今にも聞こえて来そうだ。
「まりこー、ごめんようー。」と。
きっと母はオバーと一緒にお盆の日が来る事をあの世で楽しみにしているのだろう。
祖父は、きっとあのサトウキビの杖を心配しているに違いない。
お盆の夜、私は中城村の集落を訪ねた。
そして天に向かって言った。
オバァー!オジー、バーサン、オッカァー 、なんくるないさ!(人生はどうにかなるさ、)
産んでくれてありがとうー!まりこーぐぁーや大丈夫やさ。
メーヒジャガァーヌ、 ワラバーやチューバードォー (子は強いよー!)
ウチナータイフー、トゥ、 マジョーンヤサ!(沖縄台風の如し)!

  


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2015年08月07日

真実の叫び4. いじめっ子達と夏

いじめっ子達と夏

学校の門で待ち構えていた近所の悪ガキ達、アメリカーは入れんようー!
アメリカーの学校イケェー!と石を投げる。
あーそうですか、とアメリカの学校に行くわけにもいかず教室へ駈け込む。
席は自由に選べたので、一番端っこの目立たない席にすわる、
現在もトラウマのせいか隠れて座るようにする癖がある。
堪能の日本語とウチナー口で話していると 
アメリカーあらんなー?(じゃないの)
と不思議そうな目でこっちの方を見るからである。
国際化された現代、顔と釣り合わない言葉で話すのは普通。
日本語上手ですネ、の言葉に敏感に反応する自分がいる

幼少のころに身に着いた習慣は、大人になっても離れない物だ。
なるべく人が少ないところ私の存在が知らされない場所を好む。
そんな女の子が大人になり、何千人の前で過激な歌を叫んでいるのだから
学校の同級生や担任だった先生は信じられないと話す。

凄いね!あんな声どこから出すのかなー?と。
物も言わぬ子が?マスコミ等で取り上げられ 
存在感など微塵もない目立たない子が?私自身驚いてはいる。
大人になったらこの顔が目立たない場所へ行こう、
海岸から遠い異国の地を夢見、水平線の彼方を見つめる少女だったからである。
小さい頃アメリカーと言われないように顔をうつむき上目使いで人を見た。
何か聞かれても喉元の声が声にならず、鋭い黒い瞳で訴えていた。
授業中 はい!先生!と手を挙げるだけでクラス全員が私を見る。

アメリカーが手をあげてるー!とからかわれるのでは?と言う恐怖感があった。
アメリカーは日本語の本読めるかねー?とある日クラスの誰かが言った事に
クラス中が大笑いをした。その経験から学校でも外でも物言えぬ子になった。
何を学校で教わったか?どんな友達と遊んだのか新一年生らしい記憶がない。
毎朝学校へ行き時間が過ぎ家に帰る。
勉強はほとんどしなかった。体育の時間など教室にポツリと座っていた。

そんな私に先生は何も言って来ないので不思議に思った
放り出されたような孤独感。人は構ってほしいという欲望がある。
母は私を身ごもったとき誰にも言えず孤独の中に突き落とされたのだろうか?
無視されるということはその人のことなどどうでも良いということで、
自分の存在感の意味に苦しむのではないか?

現代のいじめは闇の中の得体の知れないもの、そんな類いのものが異様に犇めく。
悪いことをしたら雷親父のゲンコツ。先生にこっぴどく叱られたり。
叱られるということは気にかけてくれるということだ。
叔母たちは、ゴウーグチ(愚痴)を言いながら私を叱ってくれた。
叱ると言う事は気に掛ける事、ゴゥーグチは愛が溢れていい物なのだ。

村には一軒の銭湯があったがお金に余裕がある人だけの物。
猛暑が多い沖縄では、井戸へ行き井戸水をザバーンと頭から浴びる。
なんとも冷たくて心地よく火のように熱くなった身体を静める。
長い夏の日も過ぎ、ミーニシ(新北風)の吹くころになると 
シンメーナービの登場だ。

大の大人もゆったりと入る大きな鍋だ。いわゆる本土で言う五右衛門風呂。
井戸水を汲み鍋に溢れるほど注ぎ足され薪で燃やし、心地よい湯に浸かる。
オジィーがヒョイッと私を持ち上げ大きな鍋のお風呂に入れようとする。
それが怖くて逃げ回ったものだ。
オジィーの昔話を信じていた私は、釜ゆでにされると思っていたのだ。
悪いことをしたら地獄にいって釜ゆでにされるよー。
日本全国民が知る昔話だが、オジィーの話には続きがある。
戦争でウチナーチュを殺したアメリカーは,
地獄で釜ゆでにされたから顔が赤い、と。
白人は肌の色の白さから怒ると顔が真っ赤になる。
笑い話に聞こえるが、まだ小さい私には恐ろしい話であった。
アメリカーと言われることで私も釜ゆでにされるのか?と怖かった。
「まりこーぐぁーや、ウチナーヌ ワラバー(沖縄の子)だよ。ヌーン、アランサ。」(大丈夫)、と祖父は笑いながら私に言った。
  
シンメー鍋はヒージャー汁(山羊汁)を作るときの出番だ。
ヒージャー汁については後で述べるとしよう。

村では相変わらず貧乏の家が多く、衛生面も行き届かない。
皮膚病を患う子や、風邪を拗らせ中耳炎になった子、髪の毛を掻き毟る子
鼻水をズルズルと垂らす子 汚ればなしの服を着た子
穴の空いた靴。{ゴミ箱から拾ってくる)
などなど、虐めの対象があり過ぎるくらいに学校にもあった。
アメリカーの子はそんな子供たちの中でも一番のいじめの対象になり得る。

病気をすれば自然に治るのを待つか、近所の家から薬を分けてもらう。
ヒ叔母のバァーサンは腰痛や捻挫 頭痛持ちなどで困っている人に 
お灸をほどこし、時には金の針をツボに刺し治療をしていた。
中国との交流があった時代に身に付けたものだ。
隣近所のオッカー達が、庭先でバァーサンに戦時中の話をしながら 
お灸をして貰っていた。
のどかな夏の日、いじめっ子達にアメリカーヒァー!と追っかけられる以外
村での暮らしは私にとって穏やかで暖かい日々であった。

二年生へと進学する頃は、私の頭の蚤も祖母の御蔭できれいに退治され 
女の子らしく黒髪も肩まで伸びた。
「ヘーガサー(瘡蓋だらけ)マリコーぐぁーも 可愛くなったねー、」と
オバァーは、嬉しそうに私の頭をなでながら言う。
「いっぱい勉強して偉い人になりなさいよー。」
オバァーはきっと私のこれからの人生を心配していたのだ。

祖母は80歳で亡くなった。音楽祭やテレビ、あらゆるローカルのマスコミなどで
マリーの名が全面を飾っていた当時、私が出演するローカルテレビ局の番組を
心待ちにしていた祖母。身体を悪くし老年は病院通いをしていたが、
最後に私に言った言葉が心に残る。
「まりこーは珍しいねー、英語学校も音楽学校も出てないのに、
どんなして歌覚えたねー?」
「ナイチの歌もアメリカの歌も上手だね~。」と、
私の顔をジィーと見つめていた。
その後祖母の後を追うように祖父も旅だって行ったのだ。

沖縄にはカーミ 、と呼ばれる土焼きの壺が沢山あり 
古くなった壺が割れた欠片があちらこちらに転がっていた。
悪がき達が私に投げるカーミの欠片は、 
先が尖っているので切り傷がナイフで切られたようになる。
そのカーミの石を投げられ学校から泣きながら帰ってくる私に、
井戸場で洗い物をしていたバーサンが、
「トォー 、マルコー、ウマンカイクーワ、」(まりこー、こっちにおいで)と
傷だらけの足や手を洗ってくれた。
井戸水の冷たさにキャーと悲鳴を上げながら、
痛いようーと泣いていたが、私の声は思わず大きな笑い声にかわった。
きれいに傷を洗い赤チンキを塗られ暖かいお芋のおやつをもらう。

守ってくれる人が居ると言うことは絶対の幸せで大いなる宝物。 
逃げ場がない人間は生きる価値と愛を知らずに生きる。
無常の世の中に恨みを覚え心に歪みを生じる。 
思ってくれる人が居るということは生きる源だ。
叔母たちの笑い声、どんなに貧乏でも笑顔で輝いてる謎が解けた。

どの時代にもいじめっこはいる。
いじめっこは虐める要素を見つけ出しその子を虐める。
虐める要素はどんなことでもいい。虐めるネタはどこにでも転ってる。 
いじめられる子はいじめられる瞬間から永遠に虐められるのではと苦しむ。
怒りと悲しみ憎しみで、自分はこの世で要らない存在と考え身を滅ぼす危険性を産む。
虐めは凶器にも成り、人間生きることへの無欲から絶望感を生じる.。

遠い時代の悪ガキ達の虐めには明るさがある。 
虐められてもその場で思い切り大泣きすればいい。
大泣きしたらいじめっ子たちはビックリして逃げて行く。
玩具やゲーム、コンピューター、テレビなどない時代。
いじめもそんなに嫌らしいものでも無かったような気がする。
貧しい子供時代のいじめっ子達は,深い理由などなく単なる遊びの中のいじめであった。
あの頃は引きこもりとか不登校などなかった。
アンマァーやオジーたちにメーゴゥーサー(げんこつ)を食らうのが落ちだ。

学校の下校時にアメリカーヒャーと、私の後を追っかけて来る悪ガキ達もいたが、
その場に出会った部落のオジィーオバァーがカマを振りあげ 
エー!ヤナワラバー!(この!悪がき!)と、追い払ってくれた。
その隙に一目散に走って家に帰った。
小学校から家までの距離が近かったので、いじめっ子たちは残念退散する日もあり、
ほっと胸をなでおろし勝ったと!愉快になる。
家の門から潜り抜け,最初にただいまー!と私の顔を見せるのは山羊小屋だ。
昼下がり家の者は、畑や野原に出てどこの家も留守だ。
開けっ放しの家はひっそりと静まり返り時々土間の方から
マルコードゥ ヤンナー?(まりこーねー?)とバーさんの声が聞こえる。

当時は泥棒騒ぎなど聞いたことが無かった。
どこの家も物がない時代、部落で盗人事件なんて起きるとすぐにバレてしまうだろう。
隣近所で何が起きたか、筒抜けの時代なのだから。
隣の人が死んでもミイラになるまで発見されない現代とは違う。
村の人達は共同体で暮らす。『隣はアメリカーの子産んであるさー』と
言いつつも、他人を思いやる心が宿っていた。

人は世間体を重んじる生き物だ、我が家に何事も起こらず
平凡に生きていきたいものだ。
家の者から有名人足るものが出ると喜びでもあるが、
何かに付けて気を使い、妙な噂を背負い込まないように気に掛ける。
世間体成るものは世間の気になるもので、あって自分の内なる物では無い。
何を言われようが、自分の信念が正しければ堂々と生きればいい、
メーヒジャグァーのバァーサン、オバァーみたいに堂々と生きればいい。
勇気とは学ぶ心と慈しむ心があれば自然に身に付く。
初めから持っているのでは無く、日々の出来事から得るものだ。

いじめっ子たちと過ごした夏の日,私は大切な何かを学んだ。
学ぶこととは良い教育を受け、学校の勉強に励む事だけでは無い。
生きていく中で経験した様々な出来事から、学び人として成長していく。 
いじめっ子達の汗が夏の太陽の下できらきらと輝いていた。
あの頃の思い出は私に笑みを誘う。
いじめっ子達は私をからかうのに飽きたのか、何だか静かになった。
オトウーに怒られたかもよー、と叔母が言う。オトウーとは祖父のことだ。
祖父は元警察官をしていたので、
まりこー虐めたら逮捕するよーとでも言ったのか?

学校帰りに真っ先に向かうところは、離れにある山羊小屋だと前にも書いた。
いつものようにただいまー!とヤギさんの小屋へ
何か様子がおかしい。ヤギが一匹居ないのだ?まさかヒージャー汁?
わたしは慌てて裏庭のオバァーの所に走って行った。

「オバァー!ヒージャーが一匹、いないようー!どこに連れて行った!と叫んだ。
「オジィーが海に連れていったさー、」と
庭のゴーヤーを手入れしながら祖母は言う。
私は、ヒージャーが殺されないようにと一目散に海の方へ走った。
心臓がパクパクするほど大急ぎで走る、
海辺の砂場付近にオジィーの姿が見えてきた。

祖父は確かに山羊を引いて海岸へと向かいつつある。
「オジィー!まってー!ヒージャー殺さんでー!」と叫んだ。
祖父は私の声の方を振り向いたが、そのまま海岸の方へ歩いていき、
曲がり角で祖父と山羊の姿が消えた。
息を切らしやっとの思いで海岸に着いた頃には、
山羊がモクマオウの木に吊るされ、メ~メ~!と鳴き声を上げていた。
オジィー、ヒージャー殺さんでー!と泣きながら叫んだが、
怖さで足が竦み、海岸の大きな木の陰で泣いた。
今でも山羊のメ~メ~の声が聞こえてくるようだ。

その夜、集落の人や親せきの人達で庭先が賑わった。
島酒とヒージャー汁で盛り上がっていたが何かの祝い事だろう。
村で祝い事があると、大きなシンメー鍋が庭先に出され、一匹の山羊が犠牲になる。
学校でいじめられ逃げ帰ったときに山羊さん達が 
何でもないさ~、メ~メ~と、泣きじゃくる私を宥めてくれる。
おいしそうに干し草を食べる仕草がなんとも言えないほど可愛い。 
山羊小屋はバァーサンが畑から帰るまでの時間 私のオヤシスであった。
友達が出来ない私に取って、山羊さん達は仲良しの友達なのだ。
そんなわけで沖縄名物であるヒージャー汁が食べられないのである。
貧乏でタンパク質などが不足していた時代,特別な日に頂く山羊や豚、
家の離れで飼っているのは家族や集落の栄養源なのだ。
サンシンの音色 島酒 ヒージャー汁に元気を貰いまた明日から頑張るシマンチュ。

そんな村中の祝い事を避け、私は奥の部屋に引きこもりシクシク泣いていた。
なんでもないさ~、とヤギさんの声が聞こえる、
いじめられメソメソして学校から帰る私に、
なんでもないさ~、メ~メ~と。宥めてくれた声。

オジィーに翌朝 言った。
「いじめっ子達に石投げられてもいいからさー、ヒージャー殺さんでようー!
ウヌ ワラバーヨー イヘーヌクトゥ イインヤー、(変な事を言う子だ)
祖父は不思議な顔をした。

学校からの帰りいつものヤギ小屋へ 
祖父がヤギ小屋の中でゴソゴソと何かをしている気配に
またヒージァー連れて行くのかと心配になった。 
私はオジィー!と大声で叫んだ。
祖父は梯子に登り、高い所に箱のようなものを取り付けている。

オジィー、ヒージァー海に連れて行かんでよう!と心配する私に、
ナーダ、ヘーサン(まだ早い)と、一言。
なるほどヤギはまだ赤ちゃんヤギだ。
ほっとして山羊小屋のほし草の上に寝転びオジーの作業を見ていた。
突然、ガァー!ピーと凄い大きな音が箱から聞こえてくる。
私はビックリして起き上がり、赤ちゃんヤギを抱きかかえその場から逃げようとした。
今で言う(殺人兵器)みたいものでヤギが死んでしまうのでは?
と思ったからである。
祖父はラジオの周波数を探っていたのだ。
その午後の日、私は初めてラジオというものを知った。

  


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2015年08月07日

真実の叫び5  オジィーのラジオ

オジィーのラジオ

「まりこー!中城公園に遊びに行こう!
帰りは、コザに寄っておいしいもの食べるよ~!」
庭先の蝉が一斉にミンミンと泣き出す、学校の夏休みに母はいきなりやってきた。
日が暮れるまで村の人達は留守だ。誰にも見られる心配は無い。
いつもの事だが、母が私を連れ出しに来ると私は無言で首を縦に振り 

うん。と返事をする。母が訪ねて来るのを心待ちにしていたわけではないが、
幼心に渦巻く母恋しさがそうさせたのか?
実の母親と知ってからも、全く母親の実感が沸かず言われるままに後についていく。

中城公園には、子供達のために作られたお馬さん乗り場があった。
(米軍が作ったとも聞く)
米軍の子供たちがハイカラの格好をして休日になると家族で乗馬に来る。
丸い円の所を馬引きのおじさんが、綱を引き一周する。
アメリカの子供たちはパパの大きな手に捕まりブランブラン
自分の番が来るのを待ちわびている。
早くお馬さん乗りたいよう~と、駄々を捏ねる、お人形さんみたいな白人の女の子。
ママがキァンディーを渡し女の子の額の汗を拭いてる。
幸せに満ち溢れたアメリカの家族を目の前で見た。

母は連れのアメリカ兵と楽しそうに何か英語で話してる。
この人は英語が話せるんだ?前も母が英語で話しているのを聞いたことがあるが、
まだウチナー娘らしい話し方をしていた。
ペラペラと異国語で話す母を、アメリカ人に取られたような気分だ。
列に並ぶ私たち三人を、アメリカ人親子の家族連れに見えるかな~?
母はこの人と結婚して、私をアメリカの子にしてくれるのかな~?

そんなことばかり考えているうちに私の番が回ってきた。
母が連れのアメリカ兵に私を馬の上に乗せて、と言ったのか、
軽く私を持ち上げ馬の背中にすわらせた。
にこにこしながらアメリカーは何か私に話しかけたが意味が分からない。
アメリカ人に抱っこされ持ち上げられたことにびっくり、
大きな手の感触がしばらく残っていた。
母は、隣に並ぶ軍人の家族連れに自分を置き換えて居たのだろう。
こんな風景を味わいたかったかも知れない。
この日の母はいつもより幸せそうに見えた。

私たちは中城公園を離れコザの町に着いた。
Aサイン(軍人を入れる許可書)の看板が置いてあるレストランに入った。
その日は日曜日とあって、レストランでは大勢のアメリカ兵家族が賑わっている。
店の隅の方に(ジュークボックス)が置かれていて 
アメリカの音楽が流れていた。

母の肩をチョンチョンとたたき小さい声で母に聞いた。
実の母だと解っていてもこの人の事をどう呼んでいいか困っている自分。
用があるときは服を引っ張ったり肩をたたいたりして知らせる。
母は直ぐに私の方を見た。「あれはなんね~?」
ジュークボックスと言う音楽がながれる機械をまだ知らない私は指をさして聞く。
「25セント玉入れたらアメリカの歌いっぱい聴けるよ~、
まりこーなんか聴くねー?」と母は私に尋ねたが、
洋楽に興味を持つ私は、色々と聴いてみたかったのだが、
連れの男と楽しいそうにしてる母に嫉妬してた。

「アメリカーの音楽はわからん、」と一言、私は再び黙り顔をうつぶせた。
メニューを持ってきたおばさんが私の方を見て、 
「カワイイグァーヤル」(かわいいねー)「姉さんの子どもねー?」
と聞いてきたが、母は「んーんー、妹の子どもだよ、」と答えていた。
オバァーの子供から今度は妹の子供?
どうして自分の子供だとは言ってくれないのか?
私を時々連れ出したりするのは、私に対しての心の詫びなのか?

祖母の家では見たことが無い、大量の食べ物がテーブルに運ばれてきた。
急に祖母の顔が浮かびオバァーが恋しくなった、家に帰りたい。
母は私を置いて一人でアメリカ人になるんだと
アメリカ人の横で嬉しそうに笑う母を見、寂しさで胸が張り裂けそうになった。

アメリカーの食べ物は今まで食べたことの無い格別な美味しさで
こんな食べ物が世の中にあるのか?と思うほどであった。
オバーオジーに食べさせてあげたいと思い、ほとんど食べずに残した。
私の食べ残しの皿に気づき母が言った。
「なんでねー?食べないの?美味しくないの?」
私は怒られたのかと思いビクビク小さな声で母に言った。
「とってもおいしいから、オジーとオバーに持っていく」
「まりこー、もうひとつオジーとオバーのも注文するから全部食べなさい。」
母は貧乏を忘れたかのように、思い切りの笑顔で私に言った。
きれいにお化粧をして、綺麗なドレスで着飾り美味しい食べ物が溢れる
アメリカーとの暮らしは母を幸せにしてくれているのだろうか?

コザの町を出る頃にはすっかり夜もふけ、村へと近付く程に真っ暗な夜道。
アメリカーの大きな車のヘッドライトだけがあたりを照らしていた。 
祖父母へのお土産だというアメリカの匂いがする食べ物を抱え
バックシートで黙りこむ私は、やがてうつらうつらと眠りに入って行った。
車のラジオから流れるアメリカの音楽が、子守唄のように心地よく聞こえていた。

夢心地の中、アメリカの音楽が蝉の鳴き声に変わり私は眼が覚めた。
アメリカーと母は居ない。アレー?オバーの家だと安心はするものの
 そうだ!
ラジオと叫んでオジーを探したが、すでにきび畑にでかけていない。
スム(奥の台所)からバーサンがマルコー!ヘークムヌカメー!
(早くご飯たべなさい)
との声がするが、構わずヤギ小屋に走った。ラジオだ!
山羊小屋のラジオは日本語放送だった。
アメリカの音楽も聞こえるのかな~?と、
高い所に設置されたラジオを触りたかったが、私の背丈では届かない。
ハッサ!!オジーはなんであんな高い所にラジオおいてあるー!と
私はぶつぶつ文句を言いながらキビ畑へと走った

サトウキビ畑は自転車で行くには程よい距離だが、徒歩で行くには少し遠い。
ラジオ!ラジオ!と言いながら走って行く。
祖父は広いキビ畑で一日中働き、キビの収穫が終わるまで隅々まで
手入れをする。
キビの収穫の時期には、親戚や隣近所の人達が手伝い大きな馬車で
海岸沿いを南に走る与那原あたりの製糖工場まで運ぶ。
現代みたいに機械での作業など無かった時代、
筋肉バリバリの若い強そうな馬が、括りつけられた太い紐を引っ張り、
何遍も何度も周り続けサトウキビをつぶしていく。
押しつぶされたサトウキビの汁を煮詰めて、黒砂糖が出来上がる。
甘い香りがそこら中に漂い、村中の子供達が駆け寄ってくる。
部落では、甘いお菓子などめったにお目にかからない。
一銭菓子屋が銭湯の側にあったが、お金のない貧乏な私たちには遠い存在だ。
ほかほかの黒砂糖のおいしさは格別だ。

祖父はバケツであたりのサトウキビに水を撒いていた。
ユクイドュクルーと言われる(掘っ立て小屋)が畑のまん中あたりにある。
お昼の休憩や突然の雨などの避難場所だ。
小屋から先ほどの日本語放送が聞こえてくる。
オジー!といきなり現れた私にびっくりした様子で、
「アイ!まりこーぐぁー、サトウキビ食べるね~?」と
キビの皮をカマではぎ始めた。

「オジー、アメリカ放送きけるね~?」と祖父に聞く。
アメリカ放送聞いてもイミクジワカラン(意味がわからん)のに、ヌーガ?
(どうして)と言いながら掘っ立て小屋のラジオをガーガー、ピーピー。
英語がいきなり聞こえてきて音楽が流れてきた。
アイ!これだよーこれだよー!とはしゃぐ私に、まりこーはおかしな子だねー?
イミクジも分からないのに面白いわけ?と聞いていたが、
そんな祖父をそっちのけにサトウキビの汁を啜りながら、
ラジオから流れてくる音楽に心を奪われた。
祖父の大きな自転車の後ろに乗っかり、日暮の畑道を抜け家路に向かった。
サトウキビ畑で聞いたラジオから流れるメロディーが、私の頭の中で鳴っていた。

「オジー!ヒージャーヤー(山羊小屋)のラジオもアメリカ放送にしてよー!」
とねだる私に、「アー、極東放送ヌ(の)アメリカ放送ナー」(ね~)
と、訳のわからない事を祖父は言っていた。
私がもうすぐ9歳の誕生日を迎える頃だったと覚えてる。

家にラジオが来てからは、山羊小屋に入り浸りだ。 
ロックボーカリストとしての音楽人生は此処から始まったに等しい。
私は生まれた時から歌うことが好きだったように思える。
祖母が連れて行ってくれた近くの公民館のウチナー芝居(郷土劇)
演技者が歌う声を帰り道に良く真似ていたものだ。
祖母は悲しくて切ない ウチナーの歌が好きだった。
夜も更けて月が庭を照らし始める頃、悲なし声で歌う祖母。
何とも言えない切なさを感じさせるその歌は、幼心でもしんみりと響く。
戦後に振りかかった自分の人生を嘆いて歌って居たのだろうか。


毎年7月4日に行われる嘉手納基地最大のイベント、
アメリカ合衆国独立記念日は、沖縄中が楽しみにするお祭りの一つだ。
50年代後半ごろにはアメリカ人相手の店も立ち並び、
基地のある町周辺が米軍の落とすお金で生計を立てていた。
基地の中に誰でも入れる、特別なイベントの日が遣ってくるとあって、
カーニバルには大勢の人たちが賑わう。
母は私をそのカーニバルらしきイベントに連れて行ってくれたが、
それが嘉手納カーニバルだったのか?は記憶があやふやだ。

アメリカ本土の贅沢さが煌びやかに展開される嘉手納カーニバル。
アメリカ人が溢れる町に、ウチナーンチュはそろそろ順応して来たものの、
基地の広さにびっくりする人や戦闘機などを見る人 
さまざまなゲームに夢中な家族連れ、
アメリカンフードを腹いっぱいに堪能する人、人、などなど、
戦後のウチナーンチュがアメリカ人と一緒に楽しむ風景があった。

母の恋人らしき人はいつも違うアメリカ兵だ。
その日も前とは違う人であった。
前の彼は本国へ帰ったのだろうか?
沖縄に駐留するアメリカ軍人のほとんどが、
期間限定沖縄滞在なので、期間が過ぎると沖縄を離れる。
やっと恋人らしき人が現れて、婚約まで漕ぎ付けても結婚までは至らない、
と聞かされた。
米軍と恋に落ちた悲劇の女達の物語が、沖縄にはいくらでも転がっている。
アメリカーと恋したら、シィティラリンドウー(捨てられるよ)と、
ごく最近でも耳にする話だ。

きっと私の母も、叶わぬ恋を何度もして来たのだろう。
母の新しい恋人はオーバーな手振りと笑顔で私に話しかけてくるが、
まったく意味が分からない。
父親がアメリカ軍人と聞かされてからは、母の連れに父の面影を見る。
母が結婚したら、従妹の子みたいに私を迎えに来てくれる、
と心待ちにしている私に、私の娘ですよ!と
一向に言ってくれない母の気配は、
私の希望をだんだんと不安へと変えて行った。

どうやら、カーニバルの野外ステージではショウーが始まったらしい。
ラジオで聞いたことがある曲が、大きな音で聴こえてくる。
大勢の人ごみの中、母の手に捕まり急ぐ。汗ですべって手が離れる。
私が迷子に成らないようにと、おんぶしようか?とそのアメリカ兵は
手ぶりで腰を屈めた。
もう小さい子供ではないからいい。と言いたかったのだが、何も言えず首を横に振った。
アメリカ兵はいいから、いいから、カモーンと言い背中を差し出す。
大きい子がおんぶされてる~!と周りから言われないかな~、と
気になりながらも背中に乗った。

大きなステージで、女性三人組がキラキラしたお揃いの衣装をまとい、
ダンスを踊りながら歌っている。
ステージが良く見えるようにと、おんぶが肩車に変わった。
父親っていいものだな~。と父親ではないそのアメリカ兵に甘える自分がいた。
アメリカーと言われてきたことでアメリカに興味を持ち、英語が話せればと思った。
洋楽への興味は、アメリカを知りたい純真な心から生まれた産物でもある。
歌詞の意味など解らない。
洋楽のポップスや映画音楽、ラジオを聞きながら真似て歌っていた。
カーニバルのステージで華やかに歌う、
白人女性グループの曲は、ラジオで何遍も聴いた曲だった。
私はいつの間にか声にならない小さな声でその歌を口ずさんでいる。 
アメリカ本土で一番売れてる女性グループだと、母が話していた。
後に、ロックバンドのボーカルになった私は、
嘉手納基地の野外ステージに立つ事に成る。

人は、自分自身が興味を持てる物に魅了される。
興味を持って努力すれば、その道の達人になれると私は思う。
自分がこれだと思うことは、楽しく取りかかれるので集中力が付く。

混血として生まれたから音楽に出会えた。
母がアメリカハニーとなったから、ウチナーという島を顧みることが出来た。
米国軍人の優しさも知った。
混血児として沖縄に生まれた私の運命が歌う、と言うことを教えてくれたのだ。
祖母が歌う悲しくて切ないメロディー、おじーと経験した様々な出来事、
バーサンが示す大きな愛、いじめっ子たちとの追っかけっこ。
無言で何も話さない黒い瞳の小さいまりこーぐぁーは
すでに自分の運命への道へと歩き始めたいたのかも知れない。


  


Posted by Asian Rose Marie at 00:17Comments(2)kyan Marie 自伝

2015年08月07日

真実の叫び6. 放り投げられた25セント玉

放り投げられた25セント玉

オバー!コザにいっていいねー?けいこーに会いに行く。
いきなり話す私に、「ドゥチュイナー?タートゥイチュガ?」
(一人で?誰と行くの?)祖母はビックリした様子で私に聞く。
「うん。一人で行く、歩いて行くさー。」と自信満々に言うと、
「ウヌワラバーヨー ヌウイチョウガ?
この子は何を言ってる)遠いよ~!」そんなやり取りがしばらく続き、
私のしつこさに観念した祖母は歩いていかんでバス乗って行きなさいと
小銭を渡してくれた。

小学三年生に進級してからは叔母たちと出かける機会が増え、
少し度胸が着いた。
外の世界に興味を示すように成り、誰かが出かける身支度を始めると
まりこーもいくー!とその周りをウロウロと付いて歩く。
そのうち、私を一緒に連れて行く事になる。
母の実家は姉妹が多いことで、お互いを名前で呼びあう、
年上の姉たちの事も名前で呼ぶ。何人もの姉が居るのでその方が分かりやすい。
離れて暮らす母親の事も、私は皆の前で、(けいこー)と呼んでいた。
いつかは引き取りに来てくれるだろうと、薄っすらと待ち望んでは居たが
実親としての実感が無く本人を目にすると名前さえ呼べず、
オイ、とかエー、とかで母親の事を呼んでいた。
それでも母に会いに行きたくなる衝動はなんだろう?

バス停の前でポッケットの小銭をジャラジャラさせながら、
バスを待つが中々バスが来ない。そうだ!やっぱり歩いていこう、
ポケットにあるお金が惜しくなり私は歩き始めた。
コザ行きのバスがしばらくして私の横からとうり過ぎて行った。
あのバスの行く方向に歩いて行けばコザに着くと確信した私は、
お金を使わなかったことに得した気分になった。
このお金で一銭菓子屋に行き,いっぱいお菓子を買い虐めっ子たちに
自慢してやろうと、にやけて歩く。

曲がりくねった山道では農家の人たちが行ったり来たりしている。
すれ違うたびに彼らの視線を感じる。
近頃は、アメリカーと思われてもあまり気にならなくなった。
いつもの事だと慣れてしまったのか?
歩いて行くうちにお腹が急激に減りだし、おまけに島草履で歩く足が痛くなり
段々としんどくなった。アーアー、オバーが言うようにバスに乗るんだった。
と後悔しつつもコザの方角へ歩いて行った。
迷子になったらアメリカーに連れて行かれて売られるよー!
と,祖母が私を引き止めるために脅していた言葉を思い出し不安になった。

村では、子供達が何か悪いことをやると脅し文句に必ず使われるこの言葉
アメリカーに売ってくるよー!もっと酷いとクロンボーに売ってくるよ~と、
子供たちを脅していた。悪いことをしたら地獄いくよー、
の言葉より凄みと現実身があり、子供たちはおとなしく成ったものだ。
クロンボーとは黒人の事で白人よりも怖いものだと当時沖縄ではそのように話してた。
黒人の混血児達は白人の混血児よりもっともっと悲惨で時には残酷な虐めに会い
家に隠れて学校にも行けない状況の中で母親共々コザの黒人街に身を隠すように
暮らすと聞いた。

峠の坂道をどんどん歩いて行くうちに、空腹感はますます増して行く。
空腹に耐えきれず、あたりの畑を見まわしながら歩いていると
そこには運良く壮大なトマト畑が現れた。畑に人影は見当たらない。
トマト畑に入り込んで赤く熟したトマトを貪る様に腹いっぱい食べた。
他人の財産ともなるトマト畑、誰かに見つかったら大変だと思いながらも、
空腹には耐えられない。
赤いトマトは、サー、どうぞ食べてください。
母親に会いに行くのでしょう?元気を出して!
と、私に話しかけてるようだ。
真っ赤に熟した沢山のトマト達、今にも地面にポトと落ちてくるようだ。
あれほどのトマトを一気に食べたことは、いまだかって無い。
今でもトマトを見ると、あの頃の思い出に「フふふ」と笑ってしまう。

あの頃は貧乏でも、野や畑に食べるものを見つけられた。
畑からとれた新鮮な野菜など、隣近所から良く頂いたのも覚えている。
道端の野イチゴなど祖母や叔母と良く摘んで歩いた。
食物は地球の自然から与えられ、自然に口にする。
そんな村の風景には、貧しい中にも幸せが満ち溢れて居た。

トマトの御蔭でお腹もいっぱいになり、元気を取り戻した私はコザへと向かう。
バスが来るたびにこの道で大丈夫だ、と確認をしながら
やっと母の家にたどり着いた。
母の家のガラス窓が、少しだけ開いて部屋の中が見える。
何やら化粧をしているようだ、そろそろ夜の店へとの身支度でもしているのか?。

私がやっとの思いでコザにたどり着いた頃には、
太陽が西に傾き始めていた。
オーイと母親を呼ぶと、ガラガラと音をたて窓が開かれた。
一人で初めての私の訪問に、母はびっくりする様子もなく
「口紅歪んでない?」と、さりげなくわたしに聞いてきた。

母は相変わらずの真っ赤な口紅を紅筆で丹念に引いている。
くたくたに疲れ、やっと母のところまでたどり着いた私は「うん、」と答えた。
真っ赤な口紅がきれいに仕上がるまで窓の外で待つことにした。
身支度で忙しそうな母は、
私が一人で外に立っていることにやっと気が付いたようだ
「オバーは?」と、母は窓の外に祖母の姿を探すように聞いてきた。
以前祖母と何度か母の家を訪ねたことがある。
そのたびに何やら私の事で揉めてる。聞かないふりをしていたが、
祖母はどうにか実母と私が一緒に暮らせることを望んでいたのだ。
又、その話でもしにきたんか?と思わんばかりに母は不機嫌な顔をしていた。

「オバーはいないよー、一人で来たよー、」と私はオドオドと返事を返したが、
「今から仕事いくからさー、忙しいよー!何しにきたねー、ヘークケェーレー!]
(早く帰れ!)と大声で怒鳴る母。
一人で来たという娘の言葉は母の心に届かない、自分のことで背いっぱいなのだ。

帰りのバス賃あげるからオバーの家に早く帰りなさい、と言いながら、
窓から25セント玉が放り投げられた。
そのコインを広い、私はコザのバス停の方向へと無言で駆けて行った。
あんな親など居なくていい!二度と会いたくない!と心の中で叫んでいた。

一人で遠いところを歩いて来たこと、
母の家でゆっくりしながらお菓子と甘い飲み物を貰い、よく来てくれたねー、
もう遅いから今日は止まって行きなさい、とか。
トマト畑でトマトを頬張りながら、そんな母と子の微笑ましさを想像していた。
近寄りがたい母、母の心はこんなにも荒んでしまったのだろうか?
アメリカーは母を幸せにしてくれてるんじゃないの?

コザのネオンがひとつまた一つと灯され、米兵達の為に準備をされていく。
あたりはうす暗くなり、夜のコザがだんだんと顔を出す。
バス停で中々来ないバスを待ちながら、祖母の顔が浮かんできた。
オバーは、きっとまだ戻らぬ私を心配するに違い無い。

母が放り投げた25セント玉を握りしめ、
急いでバスに飛び乗り家路へと向かった。
翌朝、私は大変な金持ちだ。祖母からもらったバス賃と、
母が放り投げた25セント玉4枚、そのお金が私のポケットに
ジャラジャラと音を鳴らし放り込まれている。

一銭菓子屋にたむろする悪がき達に、早速とミーハンダー
(指を加える仕草、羨ましい)させたく、十分なほどのお菓子を買いあさり、
自慢げにしていた私であった。いつもの悪がきたちが羨ましそうに私を見ていたので、
彼らに話した。「お菓子食べる?あげるよー?好きなだけ取っていいよ。」
そう言う私に全員がびっくり!
何しろ初めて私のほうから彼らに声を掛けたからだ。
いじめっ子達は私からお菓子をもらった事で少し私の事を好きになったようだ。
彼らのうれしそうな顔が、私を幸せにしてくれた。

まだ手に余るほどのお菓子を抱えガジュマルの木の上の小屋に戻った。
ガジュマルの木の上から見渡す祖母の家の風景、いつものほのぼのとした風景だ。
昨日母に会いに行き傷ついた私の心はいじめっ子達の笑顔に癒されバーさんの声で癒された。
「マルコー!ムヌ、カメー、まーんかいうぐぁ?」
(ご飯食べなさい、どこなの?)

母に二度と会うもんかと私は心に誓っていたが、再び一人で母を訪ねた。
その日はなんだか機嫌がよさそうな母であった。
いつもは玄関先で話をすませ、けして家の中に入れてくれない母であったが、
その日は様子が違った、なんだか嬉しそうにして機嫌も良い。
「まりこー、コーヒー飲むねー?」とか言って部屋に入れてくれた。
初めて見る母の住処、その部屋に置かれた物品で私の目は大きく開かされ、
瞬き一つ出来ない。母の部屋の隅から隅まで置かれた家具がまさにアメリカンドリーム
映画の世界でしか見たことのない現物に驚かされた。

床に敷かれた絨毯、ゆったりしたふかふかのソファー、
奥に置かれた王女様が横たわるような大きなベット、
美しい絵柄模様のコーヒーカップが飾られたガラスの食器棚。
どれもこれも映画の世界の物だ。
色とりどりの華やかさ、赤やピンクやオレンジ、選び抜かれたその色は
祖母の家では見た事がない景色、
明るいクレヨンの色だけが取り揃えられたようだ。
コザのネオンから発する華やかな未来への色、アメリカの色、
母が身につける服の色と同じ華やかさで部屋を着飾る。
母は洋楽の映画を楽しみにする人で、私を祖母の家から連れ出しては、
洋画の世界に連れて行ってくれていた。
洋画の世界に憧れる母でもあったのだろう。
いつかはあの世界のような自分に成れる、との思いを募らしていたのだろうか?

母の御蔭で映画の美しいメロディが
私の頭の中に住みつくようになったのも確かだ。
他にも母の環境により与えられた音楽がある。
母の部屋には大きな家具のステレオが置かれ、洋楽が聞こえてくる。
ほとんどは当時映画でヒットを呼んだ曲だ。
エルビスプレスリーのアルバムがほとんどであったと覚えてる。
私が母の部屋を訪れるたびにレコードは増え続けて居た。
米兵のボーイフレンドの為にそろえて居たのか                 
母が洋楽好きで自分の為に買ったのか?は疑問だ。
そういう訳で、私の音楽環境がオジーのラジオから母のレコードへと変わって行った。

家具で埋め尽くされた小さな部屋は歩くスペースがない。
母にとって物をそろえる事がアメリカンドリームであったのか?
ガラーンとした祖母の家は家具など無い。
あるものと言えば、食事時に使うテーブル位だった。
そんなことを考えながら、母の部屋の大きなソファーに埋もれれた。

母はコーヒーを私に差し出し、こう言った。
「オバーにインスタントコーヒー持って帰ってねー、」
「ガムも持って行くねー?」と言いながら黄色い色のチューインガムを渡した。
米兵のポケットに必ずや入るチューインガム、
コザの通りを歩いていると、米兵から貰えるガム、
母の家にはどっさりと置かれていた。母の部屋はアメリカなのだ。

そんなアメリカのコザでは、白人街と黒人街がはっきりと区別され、
住む場所まで分けられていた。
白人の子を産んだ私の母親さえも、黒人の混血児を差別していたように思える。
米軍相手を商売にするウチナーンチュさえ白人兵を相手にするほうがまだ上だと
黒人相手の水商売女を軽蔑していた。
私はボーカルになり歌を歌うと言う事から黒人のハーフが良かったと
思ったりしたことがある。

それは歌手になってずっと後の事だが、
彼らの歌唱力リズム感に魅了される次期があり、ブルース音楽に興味を持った。
Janis のCRY BABY をどうしても旨く歌えなくて
一時期ブルースを毎日聴いてたときもある。
基本的に今でもブルースが好きな私は黒人ボーカルの歌いぷりに憧れた。
ブルースは虐げられた人々の魂の奥底からの叫び、
アメリカで黒人が奴隷として扱われた時代から音楽は人々に
生きる望みを与えてくれた。黒人ボーカルが歌うブルースは心が揺さぶられる。

アメリカ本土でも差別され、ここ沖縄でも黒人兵は嫌がられる存在だ。
歴史上に示される人身売買、権利を求めて戦い続けた彼らの苦悩と暴動。
犯罪を犯し、刑務所に入るか米軍の中でも最低の地位が低い兵士になるか、
との選択を迫られ沖縄に送られてきた連中だと聞いたことがある。
黒人兵はほとんどが犯罪者だから、何するかわからんよー!と、
基地周辺の住民の言う言葉を、鵜呑みにしての偏見だと思う。
黒人兵が白人街に表われると、すぐに喧嘩が始まる。
実際、白人と黒人の暴動を何度も目のあたりにした事がある。
私たちのライブ中に喧嘩になり店の中はひっくり返され壊され、
音楽どころじゃないと大騒ぎだ。
私は歌うのを止め、ピースと叫び暴動を止めるのが仕事のように思えた。

ベトナム戦争のころでさえ、そんな状態が毎夜繰り返されるのだから
沖縄戦後はもっと酷い状態だったと思う。死人が出ることもあり 
ウチなーんちゅは自分で自分の身を守らなければ成らない。
ミュージシャンの楽器は武器となり暴動が起こるたびに壊される。
巻き添えになって被害を被ったとしても、兵隊が基地の中へと逃走すれば、
事件は事件にならず闇に葬られるからだ。

差別による巷での戦争が目の前にあった。
音楽のジヤンルでの差別が言い争いに成り災難を招き、損害をもたらす。
音楽を愛と平和の象徴と記されるが、果たしてそうだろうか?
との疑問が頭を過ったりしていた。
あの頃は白人街のライブハウスでは黒人好みの曲が禁止だ。
したがって、R&B,ブラックミュージック系など歌えない。
今の平和の時代だからこそ、ブラック系ミュージシャンに対して、
憧れを持つことが許されると思う。

米兵が作り上げたコザの町、米兵から貰ったコザロックと同じような気がする。
戦争が残した傷跡は人々にアメリカンドリームを与えることで、
その傷を忘れさせようとしているかのようだ。
当時のコザの風景を改めて考えるとそのように思う。

あの頃コーヒーと言う飲み物は、私にとって心の御馳走という飲み物であった。
コーヒーの香りはアメリカであり、父を想う。
砂糖の甘味は安らぎであり、家族の平和。
その上から継ぎ足されるミルクは母である。
アメリカ人である父と、ウチナーの母が共に寄り添う幸せな家庭への
幻想を抱かせる。

母が祖母への手土産で、アメリカ高級品食糧たる物を運んで来た事で、
祖母の家や叔母の家にはインスタントコーヒーが置かれていた。
祖母の家のコーヒーは母が持ってきたものという意識で、母への密着を想う。
戦争を体験してない私であるが、
祖母や母を見てると戦争を体験したかのような複雑な心境になる。
それもアメリカとウチナーの子であるからなのか?
放り投げられた25セント玉はその頃に私が憧れたアメリカの象徴となった。

  


Posted by Asian Rose Marie at 00:22Comments(0)kyan Marie 自伝

2015年08月07日

真実の叫び7 運命の淵

運命の淵

東から太陽が昇り始め村人は農作業へと一斉に繰り出す。
ひっそりと静まり返るある朝。母が遣ってきた。
「まりこー!コザにいくよー!」
「もうオバーの家にはいなくていいから早く荷物まとめて!」
と、なにやら興奮気味の母の言葉。

もしかして母はアメリカーと結婚する?私を迎えに来た?
アメリカーの子になる?アメリカーの学校に行く?
そんな期待が頭を過ぎり母に言われるまま紙袋に荷物を詰めた。
祖母からは何も聞いていない突然の出来事、
部落の大通りに母の連れと思われる大きなアメリカーが
待っていて私と母は急いで車へ乗り込んだ。
オバーの家にはもう戻ることはないのかなー?
朝早くから鰹節売りに出かけた祖母、キビ畑に出かけた祖父、
さよならも言えず出てきてしまった事に後悔を思いながらも
私はアメリカーの車に乗り込み集落を後にした。

コザの大通り差し掛かった頃母は米兵に道案内をしていた。
あれ?母の家に行くんじぁー無かったの?
車は母の家とはまったく違う方向に走る。
私はどこかに売られる?何か悪いことをした?
どこに行くの?と聞くことも出来ずにバックシートで大人しくしていた。
車はキーとブレーキの音を立て、ある一軒の古ぼけたトタン屋根の家の前で止まった。
「まりこー、着いたよー降りて」母が言う。 
あれー?ここは叔母の家だ、母が私を身ごもっていた頃
村の実家からコザまで通って様子を見に来ていた叔母の家だ。
叔母は待ち構えたように玄関の外に立っていた。

「まりこー、よく来たねー、サァー早く家に入って!」と、
私の荷物を持ち中へと案内してくれた。
母は叔母に転校手続きしてくるからさー,と言い残し
私への言葉は何も無くそのまま立ち去った。
これから私はどうなるのだろう?と考えていたが、
「まりこー、お腹すいたでしょう?何か食べるねー?」

「今日からここが、まりこーの家だよー。」と言う叔母の優しい言葉で
ああー、これから私は叔母の家に住むことになるのだー。
何だか安心したような妙な気持ちではあったが、
母と叔母が大人の事情等で何か決め事をしていた事に気がついた。

祖母に何度か叔母の家に遊びに連れて行って貰い、
年も若い頃に結婚してコザの町に住んで居る叔母の事は良く知っていた。
貧乏の子沢山、叔母が子供達を親身に世話する姿を見て、
実母とは話せない事も気軽に話せる優しい叔母が大好きだった。
叔母の子供達も私が来ると、ねーねー(おねぇちゃん)が来たと喜んでくれた。
けして裕福ではない叔母の家、子供が何人も居て日ごろの食事さえ事足りてない叔母の家
母はどうして自分の娘を自分で引き取らず妹となる叔母の家に置いていくのだろう?

津覇小からコザの町にある中の町小へと転校、私は小学4年生に成った。
学校帰りに通る道沿いに母の家はあった。寄って行こうかな?と
毎日のように思ったが気軽に立ち寄ることも出来ず、
急ぎ足で母の家の前を通り過ぎ叔母の家に帰った。
叔母は内職で、お隣近所の服の修理や仕立てなどをして家計を助けていた。
お客様の服の注文などの余り生地で、子供たちに服をこさえてくれる。
小さい頃に私が着てたパラシュート生地のフワフワドレスも叔母が縫ってくれた。
叔母の御蔭で学校に来ていく服はいつもおしゃれな服を着せてもらい
お金は無くても愛情に溢れる、家族でかばい合う家庭があった。
私はそんな叔母を少しでも助けてあげたくて新聞配達、牛乳配達、
空きビン、空き缶拾いなど、お金に成るアルバイトは何でもした。
学校に払う給食代など自分にかかるお金などの負担を、
叔母に背負わすのが心苦しく思えたからだ。

1960年代頃にTheアニマルズがヒットさせた洋楽に
;朝日のあたる家;という名曲がある。
私はその曲が好きで何度も歌ったことがあった。
歌詞やメロディが切なく美しく歌って行く途中情感が止められず涙する時もある。
Aサインバーで働く為に着飾る女達の服を毎日毎日仕立てる
My Mother was a Tailor She sewed my blue jeans
それらの歌詞にでてくるオッカーと叔母が重なる。


近頃母は自分からせっせと私の様子を見に、叔母の家にやってくるようになった。
そのたびに基地の中から仕入れた大量の食糧を抱えて来る。
叔母は済まなさそうにその食糧を受け取るが、
母は母で叔母の夫への気使いと配慮からだ。
母はお昼時に現われ、何時間も叔母との会話を楽しんでいる。
この頃、母はなんやら嬉しそうだ。 
自分が引き取りたくても引き取れない事情を叔母が快く受け入れた事に
母の心も癒やされて来たのだろう。
米兵相手にバーで働く意欲も歳と共にだんだん失せ、
恋人ができて結婚の約束まで至っても、
子供が居る事を理由に断られるのではと、心配ばかりしている。

母のそんな思いを叔母が私に話してくれた。
子供がいることで結婚しないという相手とは結婚しなくていい。
バーで働くことが嫌になったのであれば、掃除のおばさんに成ればいい。
そのように私は思うのであるが。
一度米兵相手に染まった女は、世間の人に何を言われるかわからん。
との恐怖が母の心に闇として渦巻いていた。
もっと強い人でいて欲しかったと残念でならない。

幸せは誰かが与えてくれるものではない。
失敗してもいいから勇気をだして、あるがままの幸せを見つけてほしかった。 
早く死んだ方がマシと口癖のように言っていた、母が哀れでならない。
自分自身が幸せと思わない限り、人を幸せにすることなんてできない。
母がまだ生きていたら、私はそんなことを母に強く言うだろう。

母は47歳でアメリカ軍人と結婚したが、私はすでに20歳を超えた。
もうーアメリカーの子になろうと言うのも消え伏せそれからは
母と娘別々の人生の始まりとなった。
娘も大人になったし、と母は一人になったことで踏ん切りが着いたのだろう。
私が結婚した後に、子供が出来てからは自分の孫が出来たことに
幸せを感じていた母、二人の孫に最愛の愛情を注いでくれた。
私を愛せなかった、いや愛はあった。私への罪滅ぼしとでも思っていたのか?
母との長い距離感が解けて、やっと本物親子に成れたような気がした。
結婚後、しばらくしてアメリカ本土へと渡って行った母だが、
寂しさから沖縄に戻りたいと何度も言ってくるように成った。
そんな母の感情を踏みにじり厳しい言葉を母に投げた。

「やっと結婚してアメリカ人になれたのに何言ってるわけー?
もう、ウチナーンチュに気兼ねすることもないのにさー、
だんなと仲良くアメリカの生活になじんだらいいよー!
沖縄に戻りたいって言うことは我儘だと」。
沖縄から遠く離れた電話口の母は弱弱しい声で、
「まりこー、わかったよー、」と一言で電話は切れた。

その声が母の最後の言葉になるとは知る由も無く、その翌日に母は死んでしまった。
母の突然の死で悲しみの余り私は体調を崩してしまう。
私が投げた言葉は弱い母にとって悲しく残酷に聞こえたのだろう。
突然の異国での死、母は沖縄へ帰りたいと言い残して死んでいったのだ。
遺体となって沖縄へかえって来た母。
戦後の混乱から這い出しアメリカーハニーになりアメリカの子を産んだ。
そんな生き方でも彼女はウチナーンチュなのだ。
母の心には故郷がしっかりと染みついていた。

ウチナーとアメリカーの狭間に最後まで葛藤する母の人生。
あの真っ赤な口紅をつけた日から彼女の人生は狂ったのだろうか?
いや、私という生をこの世に送り出す為の定めであったのか?

母の名は渓子と書く。母はその漢字の名が自分を不幸にさせていると
祖母が付けてくれたその名に、文句を言っていたことがある。
渓谷の渓だから谷底に突き落とされて這いあがれないわけさー。
姉妹はみんないい名前だのに、なんでワンビカーン(自分だけ)こんなのねー?と。
叔母たちの名を上から順番に書き改めて、母の名の意味を考えた。
確かに母の名は意味有り気だ。
恵みと書く恵だったらアワリ(苦労)しなかったさー、
と、自分の名前の漢字を祖母のせいにしてオバーの悪口を言ってたものだ。

音楽一家で村一番のハンサム警察官、祖父と結婚した祖母
戦前は良家のお嬢様で最高の教育を受けた人だ。
鰹節売りをしながら、暇をみつけては達筆な字で手紙を書いていた。
芸能や文化にも意見を述べる。文学のある祖母が、
けい子のけいの字を、なぜこの漢字にしたのか?不思議だ。
いつかあの世で祖母に聞きたいものだ。

母は夜の店へ出る以外は長ズボンを穿いていた。
戦時中に受けた大きな傷あとがふくらはぎあたりに残っていて、
その傷を隠すためにズボンを穿くと、後に話していた。
母が傷後を見せながら、学童疎開の話を始める。
疎開先で空からの爆撃を避けるため溝川に飛び込んだら、
大きなガラスの破片が足に突き刺さり大けがを負った、と。
ふくらはぎの半分がえぐり取られたような大きな傷が痛々しい。
その時の様子を、顔を歪めながら話す母。
太平洋戦争も激しくなり前線基地となった沖縄では
子供たちを避難させなければならない。
日本政府による命令だったと母は言う。

農家の家畜 学校など日本軍に差し出さなければいけない。
戦えない子供達は本土への疎開を余儀なくされた。
対馬丸が撃墜沈没されたことを知らされていた母は、 
きっと私たちも同じ目にあうのだろう、と
二度と沖縄には生きては戻れない不安を抱えて妹と船に乗り込んだ。

船底では恐怖でぜんぜん寝れんかったさー、
ひもじくて床に落ちてるみかんの皮を食べていたサー。
撃墜されんでも、ヤーサ(ひもじい思い)して、死んで行く子供もいたよー!
と話していた。
疎開先には食べるものが沢山あるからさー、と 
ひもじくて泣いてばかりいる妹を元気付け何とか現地に着いたものの、
具の入ってない薄いみそ汁と、小さいおにぎりが一個全員にくばられ 
狭い部屋にぎゅうぎゅうに、寝かされたさー。
学童疎開しなかったらこんな醜い傷後はなかったのに、と話していたが、
母は戦争というものが、自分を狂わせた事も知っていた。
心底から憎くむべきは戦争なのだ。

母の話は続く、命の尊さと生き延びるための知恵を話しているかのようだ。
アンシガ(でも)、こっちに居たら アメリカーに殺されていたかもよー?
ウチナーに帰ってきたら、知ってる人みんな死んでいなくなっていたからさー。
メーヒジァグァーヌ わらばーたぁーや(私たち家族の子供達は)
みんな生きていたよ、
バァーサンとぅ オバァー、ウヤフジ(先祖)が守ってくれたんだねー。
にーさんや、しじょうたしがてー。(兄は死んだけど)
国の為アメリカーと戦って死んだって、オッカーがいっていたさー。

女姉妹達の強さをここでも知ったが、、兄はアメリカーと戦って死んだという、
母の言葉に何とも言えない虚しさを感じる。
アメリカーの子である自分の娘を前にして米兵に殺されると言う母。
私の父も日本兵と戦って米国のために死んだのか?
国の為に戦って死ぬことが戦争なのか?
アメリカーに殺される恐怖 アメリカーに生きる糧を求め、
アメリカーの子を産み、島の娘としての意地と恥。
米国と日本国の狭間で揺れ動く複雑なウチナーンチュの心。

戦争は何の為の戦いなのか、、、、?
戦争を体験することもその時代に生まれた人々の運命だったと
言われれば、その時代に生まれたことが不運であったことになり、
平和の良き時代に生を受けた私達は幸運となる。
すべてが運命という名でかたずけられるとあきらめが付くのだろうか?
運命という言葉は残酷だ。
運命の淵を歩くウチナー女の姿を母に見たような気がした。


  


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2015年08月07日

真実の叫び8 一個の卵とテレビ

一個の卵とテレビ

コザのゲイト通りは、嘉手納基地の出入り口第2ゲートから街へと繋がる
米軍相手の店がズラッと建ち並ぶストリートだ。
私が小学校上級の頃には、ライブハウス、レストラン、質屋、洋品店、
Aサインバー、ビリヤードスロブマシン(777)、など
アメリカ兵が基地の外へ出て楽しむには、充分過ぎる程の娯楽施設が
立ち並び、夕方日も落ちる頃には大勢の米兵が通りへと繰り出す。
1ドルが360円の時代に彼らは多くの大金を町に落とした。
色取り華やかなネオンが次々に燈され、サー、今夜も稼がせて貰うよ、
と、言わんばかりだ。
ウチナーンチュは、次々に米兵相手の商売に精を出す。
ゲイト通りを隔てもう一本のストリート、BCストリートには、
白人米兵の為のライブハウスが立ち並び、
この二本のストリートをメインとしてコザの町は、繁栄して行った。

そのころ、テレビブームが訪れ金持ちの家から順番に、
テレビを入れる家が増えてきた。
叔母の家はまだそれどころでは無い。
子供の数が一人、二人と増えていき、食べるのに背いっぱいだ。
叔母は服を仕立てる他に カーテン、男たちの作業服、服のリメイクなど、
洋裁関係ならなんでも引受、愛用のシンガーミシンでその作業に追われていた。
鉄の塊のようなミシンは、叔母のたった一つの嫁入り道具だったらしい。
通りに店を構えることも考えていたが、経済的に余裕が無く、
狭い居間での作業だ。

毎日カタカタ、カタカタとミシンの音が鳴り響く居間に、
客から請け負った古着などが山のように積まれていた。
叔母はとても優しい人で金もうけには、疎い人だ。
叔父もそうであるが、二人して近所の人が困って居ることに、
黙って見ている人では無い、何か困った事があれば進んで手を貸す叔父と叔母。
叔母は、報酬なしで、近所の人たちの服を修理したりする人だ
そんな性格の二人で、家は相変わらずの貧乏だ。
叔父が稼いで来る僅かなお金は新しい家を建てるための材料費。
少しずつ材料を買い、経費節約のため自分で家を建てると叔父は話してた。
そのため日ごろの生活費は叔母のミシンを漕ぐ足に頼っている。
当時住んでた家はトタン屋根が今にもはがれそうなみすぼらしい家だった。
夏になると、幾つもの台風(最近は少ない)が沖縄に上陸、
その度にトタン屋根が吹き飛びそうになる。
ほとんどの家がそんな状態ではあったが、叔母の家程では無い。
雨漏りもひどく、風の音がゴーゴーバタンバタンと激しく壁や屋根を叩きつけ、
真っ暗な部屋で台風が通り過ぎていくのをじーっと待っていた。
でかい台風が上陸した場合はそれどころでは無い。
私の誕生月頃は毎年と言うほど、強い台風が来たように覚えてる。
まるで、私が生まれた日を忘れさせないようだ。と叔母が言っていた。

台風が過ぎ去ったあとは、昨日の事がウソのように思える晴れ渡る青空。
壊された壁や屋根、びしょ濡れになった家具や服で脇道は埋め尽くされていた。
アーアー、またお金がかかるな~、と叔父は屋根のトタンを見て溜息をついた。
そんな中、次の台風が最大級の勢力で沖縄本島に上陸した。
私たちは家の中で身を小さくして、
いつもの様にじっと台風がとうり過ぎるのを待っていた。
夜中の午前を過ぎたころ物凄い音とともに屋根が吹き飛ばされたのだ。
叔父と叔母は、小さい子どもたちを両手に抱え、
激しい雨と風の叩きつける外へと飛び出した。まりこー!ヘーク!(早く!)と
叔母が叫んで私は叔母の後に着く。私たちは近くの病院に避難をした。
通りは雨で浸水、私の胸のあたりまでだ。
いろんなものが強い風に呷られ飛んでくる。どこも停電で真っ暗だ。
流れが早い泥水の川となった大通りを必死の思いで私たちは歩いた。
何度も流されそうになったが、叔母の服にしがみ付き
どうにか避難場所に着いた。泥水が口の中でしぁりしぁりしていた。

その避難所には私たち家族の他にだれも居ない。
「あいえー、学校んかい、むる、ひんぎとうーさー。」
(どうやら、学校の方にみんな避難したんだ。)
「ウマヤ(ここは)、幽霊がでるからさー、」と叔父は言った。
私たちが避難した場所は病院の死体置場だと、叔父に後から聞かされたが、
あの日あの場所に、人間の死体らしきものは見えなかった。
もっとも、真っ暗闇の中でなにも見えなかっただけかも知れない。
その死体置場は、ベトナム戦の頃にも利用されていたらしい。
大人になってから町の人に聞かされた話だ。
ベトナム戦で傷ついた米軍の遺体が運ばれてくる。
その遺体を洗う場所だったと。
その仕事はお金になる仕事だったと、その人は話していた。
バラバラにされた手や足を、ひとつ、ひとつ、と丁寧に消毒液で洗う。
なれてくると、ただの肉の切れ端に見えた。と話してた。
きれいに洗われた遺体は、軍病院に送られ修復され本国に返されたそうだ。
明日はベトナムへ出撃とせまる、
アメリカ兵の前で私が歌っていた頃の出来事に驚かされた。
華やかな夜のネオンの下で、アメリカ兵は思い切り羽を伸ばし
ベトナムに飛び立つ。
生きて帰るからと言残し、死んでしまうかも?
という顔は誰一人として見せなかった。音楽は彼らを救えたのか?
私の歌が彼らにとって最後の歌に成ったかも知れないのだ。

私が小学六年生の頃にはほとんどの家にテレビがあった。
私はすぐ下の従弟の手を引き、
テレビ見たさに隣近所の家にお邪魔させて貰った。
近所の方は快く、私達にテレビを見せてくれたのだが、
それからというもの、ねーねー、テレビ見に連れて行ってー、
と、せがむように成る従弟。
毎晩同じ家にお邪魔させていただくのも、気がひけ、
窓が開いて中のテレビが見える家を見つけては、
外から人の家のテレビを除いていた。
そんな事を繰り返していた私たちに、叔父は「イェー、フージンネェランドー、」
(みっともないよー)と、どうにかテレビを買う方法を考えていたらしい。
ある日、叔母は私に言う。
「まりこー、ゲイト通りの質屋までミシンを持って行って質に入れてきてくれんかねー?」
私は小学生の身で、鉄の塊の重いミシンを1時間ほどかけて運ぶことになる。
ミシンの足には小さい車輪がついていた。
叔母はこの子にお金を渡してください、と言う走り書きの手紙を私に持たせた。
途中まで一緒にそのミシンを押してくれた叔母だったが、
ゲイト通りの人出の多さに帰ってしまった。
ミシンのガラガラという大きな音、そんな光景を振り返る米兵達、
ゲイト通りで、重いミシンを一人で押す私を見かねてか、
通りを歩いていた2~3人のアメリカ兵が、
「ヘイ、スイリイー、ユーワンミーへオプ?」
(かわいい子、手伝おうか?)と声を掛けてきた。
重いミシンは、彼らの助けを借りてあっという間に質屋に運ばれた。
アメリカーの顔をした、うちなーわらばー(沖縄の子」に、同情をしたのか
アメリカ兵達は、陽気な笑顔を振りまき、私にガムと25セント玉をくれた。
小学生の頃からアメリカ兵はいい人だな~、と私には思えるように成った。
母の連れの米兵も、私にはいつも優しかった。
ウチナーンチュのように、私を変な眼で見たり虐めたりしない。

ミシンと引き換えになったテレビが叔母の家に運ばれてきた。
自分たちの家で、気兼ねなくテレビを見られるようになった事で、
従弟は大喜び、もう外をウロウロしなくていいと、ほっとした物だ。
テレビのある家を探して窓からのぞく私たちに、
「イェ!ヤナわらばーや、アマンカイいけー!」(悪い子はどこかに行け)
と、追い払われた事もあったからだ。
ねーねーが大きくなったらテレビ買ってあげるからね、
と、駄々をこねる弟に言い聞かし家に戻ったりしたものだ。
その従弟はなぜか、現在電気屋を経営自分でテレビを買った。
幼少のころの出来事を覚えて居たのだろうか?

従弟は、良く風邪をひく子で甘えん坊でもあった。
ある日、彼が風邪を拗らせ寝込んでしまった。
心配した叔母は、何か栄養の或るものをと私に卵を買ってくるようにと言う。
卵は一個だけで、熱を出し寝込む従弟の分だ。
貧乏な家では、卵など病気をしない限り食べられない。
私は健康な方だったので、めったに卵など食べた事が無かった。
学校に持って行くお弁当のおかずは、庭で取れたキャベツだけだ。
お弁当に卵が入ってる子は間違いなく金持ちの子だ。

私が食べる可能性無しの 一個の卵を大急ぎで買いに行き、
帰り道でなぜか気分がわくわくした。
もしかして従弟は卵が食べれないかも?
あんなに熱があるんだしー、無理でしょう。と一人で決め付け、
ルンルン気分で卵を抱え、スキップとダンスで踊りながら、帰っていた、
その時だ、私は大事な卵を落として割ってしまったのだ。
物凄いショックと共に割れてしまった卵を拾い集めたがもうドロドロだ。
叔母になんて言えばいいのかなー、と、ふさぎ込んで家に帰った。
私の予想は的中、叔母に物凄く怒られついには泣きだしてしまった。

一個の卵、あの頃は物凄く大事な大事な卵だったのだ。                 
叔母にその卵事件の話をすると、今では大笑いだ。
あの頃はひどい貧乏だったね。と、懐かしがる叔母である。
現在私は叔母の家を訪問する際には手土産に卵を持って行く事にしている。
懐かしい時代のほのぼのさが蘇り、
現在私たちがどんなにめぐまれて居るかを認識させてくれる。
貧乏とは悪い事じぁ無いなー。と過ぎし日の出来事が
愉快に思えて幸せになれるのだ。
あの頃の貧乏は悲劇ではない、お金に変わる幸せが満ち溢れて居た


  


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2015年08月07日

真実の叫び9  賞金稼ぎ

賞金稼ぎ

テレビの供給率が上がると共に本土から数多くの娯楽番組が沖縄にも放映された。
沖縄と本土を繋ぐ架け橋、夕飯時の皆の楽しみがテレビとなった。
コザの町に住むようになってからというもの、私はますます洋楽に填って行った。
内地から放映される歌番組などには、心が魅了されなかったものの、
当時、ローカルで放送されるのど自慢番組に興味を持った。
優勝するとお金がもらえるぞ!お金に成りそうな番組に何度も応募、
賞金稼ぎを狙った。
しかし、流行りものの歌謡曲を歌わなくては成らない。
私にとって洋楽は心底感じられる何かがあったが、邦楽は聞く耳持たず。
学校の音楽の授業で習った曲も真剣に歌ったことが無い。
適当にやっていた私の通信簿には ② の文字が毎度の様に記されていた。

そんな事で私は本当に旨く歌えるのか? どうなのかも分からないまま
全く興味がない流行歌を賞金稼ぎのため、人目につかない処でこっそり練習していた。
歌以外にもいろいろなコンテストで賞金を稼げる事を知った私は、
すべてのコンテストに次々と出演した。
最初に応募したコンテストは今でも忘れはしない私の大失態だ。
ある日ピアノを披露する番組に応募した。もちろん私はピアノを弾けない。

其のころ私にもやっと同級生の友達ができ、学校帰りに彼女の家に良く遊びに行った。
友達の家は、米軍相手のレストランを経営していて裕福だった。
彼女は家に帰るなりピアノのレッスンを毎日欠かさずにしていた。
大きな外国製のグランドピアノがある部屋で、
クラッシック曲の何番みたいなのを上手に弾いている。
そんな友達を非常に羨ましく思う私であったが、
ピアノが家に或るわけでもないし、高いレッスン料を払えるわけがない。
同級生の彼女は、私が応募したテレビ番組のコンテストに出る。
彼女の腕前は達者優勝間違いなしだ。
ピアノなど弾けない私は友達に、簡単な曲でいいから教えてと頼んだ。
彼女は譜面を捲りながら、どれにしようかと悩んでいる様子。
譜面はぜんぜん読めないよ!と、グランドピアノの大きな椅子に
並んで腰かける彼女に言った。
学校で先生が伴奏する曲をなんとなく耳で覚えていたので、
私は一本の指で、ポンポンとその曲を弾き始めた。

音は不思議と聞き分けられたので、
指で一回押さえた鍵盤は直ぐに覚えられた。
初めて触るピアノにそんな難しいものではないな~、と
思えたが、譜面が読めない私には音感だけがたよりだ。
友達は指の位置と指の使い方を教えてくれた。
それがきっかけで音楽の教科書に書かれた紙のピアノ盤で
指の動きを練習する。
音が出ない紙のピアノ盤は、指が早く動くための練習だ。
時々本物のピアノを友達の家で弾かして貰ったおかげで、
私はコンテストに出る事に成ったのだが、
コンテストに出るには保護者が必要だ。母にその事を言い出せず、
私は那覇のテレビ局の近くに住む、叔母に頼む事にした
那覇に住む叔母とは久々の再開だ。祖母の家に私が住んでいた頃に
あちこちと連れて行って貰った若い叔母だ。
女姉妹の中で、一番行動力がある叔母で70歳を超えた現在でも、
外国への一人旅に出る。
叔母の家に着いた私は彼女が留守でない事にほっとする。
電話が無い時代は不便である。

さっちゃん!(叔母)と大きな声で呼び、
ドアの前に立つ私にビックリしていたが、叔母にすぐに要件を伝えた。
何しろ時間が迫ってる。「まりこー、ピアノ弾けるわけ?」と
不思議な顔をして叔母は大急ぎで支度をした。
どうにか時間ぎりぎりで間に合い、テレビ局のスタジオに入った。
私と同じ年頃のお嬢様達が、控室からおめかしを終え、
番号順に椅子にすわり自分の出番を待つ。
女の子達はレースがいっぱい付いたピンクや白のドレスを着て、
手にはクラシックのバイエル本を持っていた。
母親にドレスの感じを聞いたり、リボンを直して貰ったりしている。
私の格好は?と言えばコザで世話になっている叔母が縫ってくれた
木綿のワンピース。手にバイエル本は無い。

当時は出演者の予選とか無かったと記憶する。
予選があったら私が通過するわけがない。
応募した返信ハガキに記された日に現場へ行き、
リハーサルもやったのか?どうだか?忘れてしまったが、
あの頃を思うと、私がおバカだったのか?勇気があったのか?
ただ、賞金が欲しかっただけなのか?
30ドルの賞金を手にするのは誰か!と司会者の興奮した声が聞こえてくる。
いよいよコンテストが始まった。どの子も上手にピアノを弾く。
流れるピアノの音が会場に心地よく聞こえてきた。
番組の最後に優秀賞~3位まで発表され、名前が呼ばれる

マリコさんと呼ばれ、いよいよ私の出番が来た。
椅子にすわりピアノを弾き始めた。
グランドピアノ鍵盤のオクターブだけで十分に弾ける1曲だ。
場内から観客がクスクスと笑いだす声が聞こえてくる。
弾き終えてパラパラという拍手で私は退場した。
保護者付添できた叔母は、
まりこー!恥ずかしいから帰ろう!と怒り出した。
「ハッサ、イッペー(非常に)恥かいたさー、
ピアノも弾けんのに何でコンテストに応募したわけ!」と。

私には妙な度胸と意地があり自分の意思を曲げない頑固な面もある。
その生き方は今でもさほど変わらない。
やったことの無いことでも出来る気がしてチァレンジすることだ。
1990年、ミュージカルの出演依頼が私の所に舞い込んだが、
私の意地はここでも発揮された。
セリフは正しい標準語で発音しなければ成らない。
沖縄訛りが消えなくて、イントネーションを直すことに必死だった。
セリフにダンス。そこには40歳にしてアマチア女優の私がいた。
幸いにも一緒に出演する大物俳優や女優さん達が、親切に私を指導してくれた。
その御蔭もあり1997年までミュージカル女優として
舞台に立つことが出来たのだ。

幼少のころ、虐められることで目立たないようにと思っていたことが、
どんどん目立つ方向へと進む自分。逆に自身の存在感を示したかったのか?

そのあと、フラフープ大会、ツイスト大会、など、
賞金が稼げるイベントを、ほとんど制覇して行った。
そんな私もコザ中学へ進級、叔母の家は引っ越しすることになった。
叔父が、手作りで作り始めた家が完成したのだ。
新居に引っ越してからは、小さいながらも自分の部屋があった。
まりこーも年頃だしと、私の部屋を作ってくれたのだ。
新しい場所で私に親友というものが出来た。
私たちはいつも一緒に行動し、将来の夢など語りあった。
彼女も歌う事が大好きだ。
邦楽大好きの彼女は、流行の歌謡曲をいつも歌っていた。
学校の勉強はそっちのけ私たちの話すことは音楽だけだった。
のど自慢コンテストで賞金を頂く計画をしていた彼女と私。

どの曲がいいかなー?と迷う私に「まりこーに合う曲はこれだよ」と
歌謡曲でもポップス風なのを捜して来てくれた。
私たちはテレビ局荒らしそのものだ。賞金稼ぎに精を出し、
何度も応募するうちにテレビ局もあきれたのか、
返信が来なくなってしまった。(又こいつらだー、)と、思ったに違いない。

自身の出費を賞金稼ぎで賄っていた矢先、どうしょうか?と困っていたが、
嘉手納基地の中でハウスメイドのバイトを見つけ週10ドルのお金を手に入れた。
音楽以外は興味を持たない中学生の私と彼女。
学校帰りにはゲイト通りに向かいその辺をブラブラしていたものだ。
ライブハウスから聞こえてくるバンドの音に聞き惚れ、
ほとんど毎日ストリートで屯していた。
その頃から私はバンドボーカルに成る夢を大きく膨らませていった。

  


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2015年08月07日

真実の叫び10 16歳の決意

16歳の決意 

私の中学時代は、急ぎ足で私を大人へと成長させていった。
貧乏な子は早熟だ。自立するのも早くやってくる。
母恋しさで葛藤していた私の思いは成長とともに薄らいで行った。
母も父も無。誰にも頼らず一人で生きる事を決意
高校進学と同時に、長い間世話になった叔母の家を出た。
[16歳以上、ウェイトレス募集]の看板があちらこちら目につくゲイト通り。
15歳の私は一個だけ年をごまかしアメリカ人相手のレストランにバイトを見つけた。
ウェイトレスをしながら、いつかはバンドのボーカルに成ることを夢見ていた。
基地の中で、ハウスメイドをしながら貯めていた僅かなお金と、
賞金で稼いだお金で、私はバイト先の近くに狭い部屋を借り、
私だけの新しい毎日が始まった。、レストランでウェイトレスをしながら高校へ通う。
自活できる自分にもだんだんと自信が付いて来た。

その頃本土ではマスコミ旋風が起き、今まで虐められてきた
ハーフの子達がどんどんテレビに登場するようになってきた。
モデルであったり、アイドルであったり、歌手であったりだ。
ハーフの子たちは可愛いと言われ、マスコミ業界から引っ張りだこになる。
娯楽番組は可愛くてプロポーション抜群のハーフの子達に目が行くように成る。
その御蔭か私への世間の反応が変化、本土に住むもう一人の叔母は今すぐ東京に来ない?
まりこーだったら芸能界で売れるようー、と言い出す始末。
他の叔母たちは私をミス沖縄に出場させることを企んでいた。
バイト先のレストランではアイドルとなり、客が増えるようになった。
アメリカ兵がほとんどだが、一緒に来るおねぇちゃん達に可愛がられ、
バイトが終わり頃には、私のポケットはチップで膨れていた。
アメリカーワラバー(混血児)がいつの間にか可愛い子と言われるようになり、
まりこーと言う名は《マリー》と呼ばれるようになった。

大いに繁盛するバイト先で忙しく働いていた私に、一つの運命という物がやって来る。
其のころ、店で働く年頃の娘達は次々と米兵と結婚、米国へ渡って行った。
アメリカ人になれるチャンスが、そこにはいくらでも転がっていた。
幼少のころ思い悩んだアメリカ人に成りたいとの夢、  
その願いもどこかえ消えてしまい、私の心は、ボーかルの夢で固められていた。
母や叔母達が私に望んでいたのは、アメリカ人と結婚して米国で生きることだ。
ウチナーンチュにいじめられる原因は、私の見かけ混血であるからと言う。
混血児はその方が幸せになれると。アメリカは多彩な人種がいる国
私の顔立ちも上手く隠され、虐めと差別など無い世界がある。移民の国アメリカ、
そのアメリカにも差別と偏見が渦巻いていることなど、叔母や母は知らなかった。

午後のランチタイムも一息ついたある日の出来事である。
5~6人のミュージシャンらしい人達が店に現れた。
ミュージシャンらしいとは、彼らの服装やヘヤースタイルから判断が付く。
当時、男性のロン毛はミュージシシャンの特徴であり,象徴でもある。
コザの町ではバンドマンと呼ばれ、鼻高々に行動する彼ら。
一番の人気職業であり、金持ちであり、皆の憧れともなる。
一晩に稼ぐお金が、一般の人たちの倍以上と言われ、
ズボンのポケットに押し込まれたドルを、惜しみなく使う。

私は店のメニューを差し出し、早速と注文を伺った。
すると、彼らの返事からして耳を疑うような言葉が返ってきた。
「ネーネー、店にあるもの全部持って来て、」とか言ってる。
メニューのすべての食べ物を5~6人で食べるのか?
このバンドマンたちは、私をカラかっているに違いないと、直ぐに聞き返した。
「え!全部ってこのメニューの食べ物の事ですか?」
彼らの返事は、生きの良いハイテイショオンで、
「オォー、イェース!」と、返ってきた。
どうやら本気らしい。こんな客は初めてだ。フラーあらに?
(バカじぁ無いの)と、
そう思いながらも、言われたとおりに注文を受け、大量の食物をテーブルに運んだ。
彼らは現在沖縄を賑わしているバンドグループではあったが、
支払は大丈夫なのかなー?と心配した。
そのバンドマン達は1時間ほどで、その大量の食べ物を平らげようとしていたが、
無様な残り物で、いっぱいになったテーブルを後にし、
一日の売上に等しい大金を支払い店を出て行ったのだ。
店の従業員らは、話している。
「ハッサヨー、バンドマンは金持ちだね、」
「マリちゃん、歌目指しているんでしょう?」
「ガンバリヨウー、ジンムチャー、ナインドー」(頑張ってね、金持ちになるよ!)と。
彼らが食い散らかしたテーブルの上の食べ物の後片付けをしながら
バンドマンの金使いの荒さに驚かされた。

しばらくして、町中にボーカル、及びキーボード募集
のチラシが目につくようになった。
私のバイト先にやってくる彼らのバンドからの要望だ。
ボーかル志望の親友と私は、彼らのオーディションに行くことにした。
ボーカルを目指す私と彼女に希望という字が輝いた。
私たちは、緊張を隠せないままそのバンドの指名した現場についた。
「キーボード弾けるね~?」とメンバーの一人が言った。
弾けませんと、私は答えたが、何でもいいから弾いてみて、と言われ、
キーボードの前で、さて?どうしよう?と困った私に、
「学校で習った曲、マリー弾けるでしょう?」と親友が言い出す。
小学生のころ、ピアノコンテストで大恥をかいた曲の事を思い出した。
あんな幼稚な曲を沖縄一売れているバンドの前で弾く事になった私は、
仕方なく鍵盤をたたくように弾き始めた.が、
余りにも恥ずかしさで、すぐに止めた。
絶対馬鹿にされると、顔を真っ赤にして沈黙する私に、
「オー、度胸あるねー、練習したら出来るよー、」
「何時かは自分達のメンバーになれるよ、」とも言われ、
ホントかなー?と疑いながらも、私と親友は彼らの言葉に喜んだ。
世間知らずの私たち、大人の男たちにからかわれているのも知らず、
その言葉を鵜呑みにしたのだ。コザの町を我が物顔とし大手を振って歩く彼等。
ガキは要らない,とか言われ、相手にされないかも?との不安が喜びに変わった。
それからというもの、まったく弾けないキーボードという楽器に興味を持ち、
その楽器をどうにか弾けるようになることばかり考えて居た。
私たちは出来るだけ大人の女として見られるよう、
大人っぽい服装、化粧をしてコザの夜の町に出かけた。

ライブハウス通いの私の夏がやがて終わろうとするある日、
クラス担任である先生が、バイト先に訪ねてきた。
夏休みを終えても学校に登校しないことで、どうしたのか?と聞いてきた
これからの自分が目指す道がミュージシャンだという事、
学校の授業にはもういけない、ライブハウスで音楽を聴くことが大事など、
出来るだけ先生にわかってもらえる様に話した。
先生は私の夢物語よぅな話を黙って聞いていたのだが、学校に通いながらでも
音楽はできるようー、クラス全員貴方が授業に出ること願っているよーと、
私を説得し始めた。
小学生の頃、私が学校に行こうが行くまいが誰も気に成らなかったあの時代とは違い
クラス全員が心配してくれているんだ、という事に私は嬉しく思ったが、 
ボーカルへの夢は硬く決心が揺らぐことはなかった。
そんな私を心配してくれ、諦めることなく私を説得、
先生のお陰で高校を卒業できたことを非常に感謝している。

バイト先のレストランで、メニューにある食べ物全部をくれと言ったバンドマン達。
そのバンドのライブハウスに入り浸りの私。
やがて私はメンバーの一人と親密な関係になった。
後にお腹の父親とも成る彼は、ボーカルに成りたい少女に
音楽の事やバンドの事を色々と話す。
彼の話す言葉に聞きほれ洋楽の世界へとどんどん私を魅了した。
その年の暮れ私は妊娠という現実を知る事になったのだが、
恋や愛やらをまだ何も知らない私に子供が出来たのである。
私の母は16歳の私に子供が出来たことを知り、
「まりこー産んだらだめよー、中絶しておいで!」と怒りたてた。
母が私を身ごもったとき、海水に三日三晩浸かって
流産させようとした話を思い出し母にこう叫んだ。
「なんでねー、子供を殺すのそんなに簡単なわけー!」
私と母は泣きながらいろんなことを言い合った。
「アメリカーの子供じゃないよー!ウチナーンチュだよー!」
「だから駄目って言ってるわけさー、うまく行かないよー」
「子供産んでもいじめられてアワリするよー。」(不幸になる。)
アメリカーと結婚してアメリカに行きなさい、と叫んでいた。
人生を恨むよーと、大泣きをする母が哀れで惨めに見えた。

ミュージシァンの妻に成った私の環境は大好きな音楽に埋め尽くされたが、
夫は、妊娠中の妻を一人残しやがては家に帰らぬ人と成った。
母が言った、「不幸になるようー、」はこの事だったのか?
大きなお腹で働くことも出来ない、彼の帰りを待つしかない。
家にある食糧が消えていく。コザの繁華街へ毎晩彼を探しに行く。
やっと、彼の居場所を突き止め生活費というお金を貰い
暗い夜道をとぼとぼ歩き、大きなお腹を抱えて一人で帰って行った。
自分が馬鹿だったんだー、私は幸せになんてなれない。後悔に悩まされる日々が続く。
そんな私に母は相変わらず説得をする。
彼とは別れなさいと、今からでも間に合うからと、
今からでも間に合うという意味は中絶を進めているのか?
帰る家もない私に、何処に行けば良いって言うの?
自分と一緒に暮らそう、なんて一言も言ってくれない母に
人間不信さえ感じるように成った。

いよいよ、私に出産日という日がきた。その日は朝から陣痛が始まり、
誰も居ない部屋でおろおろしながらこれから子を産むという怖さに
押し潰れそうに成った。
長い陣痛の末、この地球に躍り出た小さな生命は男の子という宝物であった。
まつ毛の長い大きな健康な赤ちゃんだ。
私に子が生まれたことを知り彼は戻ってきた。父親という意識を持ったのか、
「こんなケムジャラ、本当におれの子か?」と嬉しさを隠しながら
わざとらしい冗談を奮発していたものだ。
子供が生まれたことで、しばらくの間私たちにも幸せという家族風景があったが、
まもなくすると再び家に帰らない夫となった。
取り残された部屋には食べるものが無い。
栄養不老の母親の母乳で赤子はお腹をすかし泣き続けている。
私は困ったあげく、夜中にこっそり隣近所の野菜畑に出向いて
キァベツを盗む羽目になった。
ミルクが欲しい、お金がない。砂糖水をミルク代わりに与え
泣き止まない赤ちゃんをなだめていた。 
17歳で母になった私には、もうボーカルに成る夢などどこかへ消えて
飛んで行ってしまった。
どうにかこの子と生きて行こうと、
家から歩いて30分ぐらいの所にウェイトレス募集のレストランを見つけた。
夜中から明け方まで雇ってくださいと、私は店主に頼んだ。
赤ん坊を抱いて必死に頼む私に、それでは明け方4~6時はどうですかと言われ、
すぐさま明日から働くことにした。
生まれて間もない赤ん坊を寝かしつけ、毎晩走って通ったものだ。
一人残してきた子供の事が気になり、
胸が張り裂けそうになるくらい辛かったことを覚えてる。

どうぞ神様、私が家を空ける間この子をお守りくださいと、
祈りながらバイトを終え一刻も早く家へ帰る。
大声で泣き叫ぶ赤ちゃんの声が外まで聞こえてくる。急いで鍵を開け部屋の中へ入る。
汗びっしょりで、死ぬほど泣いたんだねー、ごめん、ごめんと言いながら
一緒に泣いた。泣き虫の17才の母であった私だが、
絶対にこの子を守るという強い意志は誰よりも持っていた。
私はバイト先での収入、4ドルというお金とチップをもらい、
どうにかミルクと食料品を買う事ができ、ほっとした。
穢れの無い赤子の清んだ瞳は、私に生きるという強さを教えてくれた。


  


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2015年08月07日

真実の叫び11 ミュージシャンへの道

ミュージシャンへの道

17歳で一児の母となった私はまもなくキーボード奏者として
夫のバンドに参加する日がやって来る。
ある晩、久々に夫が私たち母子の元に帰ってきた。
生活費を置きに来たのか?どうせ何処かにすぐ行っちゃうんだろう?
そんな事を考えていたが、家に入るなり私に言った。
新しいバンドを結成するためにキーボードプレイヤーが必要だ、
バンドに参加してくれないか?
バンドマンと呼ばれる時代も終わりバンドの解散、
新結成を繰り返していた矢先だ。

私にキーボードを弾けない事を知っていた彼はそんな事を私に聞く。
ミュージシャンに成りたいと望んで居た事でも思い出したのだろうか?
子育て、バイト、学業で忙しくしていた私は何も返事が出来ず黙っていたが、
キーボードを練習してバンドに参加したいと言う望みはあった。
ボーカル希望ではあったが、とりあえずバンドの一員になる事を決めた。
夫はヤマハのキーボードを家に届け又帰らぬ人になったが、
赤ん坊を寝かしつけ静まった部屋で、夜中から朝方まで練習に明け暮れた。
譜面が読めない私はバンドの持ち曲を何度も何度も聴き、耳コピーで覚えて行った。
しばらくして彼は、当時沖縄で一番のキーボード奏者と言われる人を
私の先生として家に連れてきた。
それからと言うもの先輩の手ほどきを受け幼子を抱え真夜中の過酷な練習が始まった。

ベトナム戦が泥沼化すると同時に、Aサインの街も泥沼化して行く。
沖縄のロッカー達は米兵からも、町の人たちからも頼りにされていた。
米兵の空虚となった心は、音楽に救われ、Aサインバーにはけ口を求める。
米兵相手のライブバンドにはハモンドオルガンが主流になり、
今までの3コードだけで引ける楽曲だけではライブハウスを満たすことが出来ない。
米兵の望む曲、ブラックライトの照明にぴたりと合うマリファナの匂いがするサウンド。Iron Butterfly, The Doors,  Vanilla Fuge  Janis Joplin
アメリカ本土では、反戦運動が盛んになり人々は二本の指を立てPEACEと叫ぶ。
フラワーチルドレン,ヒッピーが溢れ基地の町の音楽は
サイケデリックミュージック一色となった。

 
毎日の猛練習で何とかキーボードを弾けるようになった私は、
いよいよバンドへの参加だ。
私達バンドはコザの町から離れ、金武町のAサインバーで箱バンドとして
毎晩演奏することになった。 一晩4ステージをこなさなければ成らない。
50曲程の楽曲 ライブが終え夜中に又練習、その繰り返しの毎日が過ぎて行った。
明日はベトナムに狩り出される兵士、ベトナム戦から本国へ帰還する兵士
金武町のAサインバーはまるで戦場にいるかのようだ。
ベトナム戦で狂った兵士らは基地内から武器を持ち込み、
発煙弾が投げ込まれ、暴動が毎晩のように繰り返された。
命がけのライブ活動、黒人兵と白人兵の人種差別争い
初の私のバンド活動は音楽を武器にして戦う戦士のような者だ。

1970年、もうすぐクリスマスと言う時期に私達は金武町のライブを終え
コザの町へと移動した。私がそこで目の辺りにしたのが、コザ騒動だ。
ゲイト通りが燃え次々とYナンバー車両がひっくり返され炎上、
何百人の数の人々が石を投げあい、罵倒が飛び交う。
基地の町コザ、米兵の落とす金で繁栄 米兵への怒り
ウチなーンチュの複雑な環境はこの事件でいっきに爆発したのだ。
夫はその暴動にすぐさま加わり、私はでゲイト通りの片隅で怯えていたが、
アメリカと沖縄の狭間で行き場を失うかのようであった。

コザの町からルート58号線を北に走らせると、辺野古という町にたどり着く。
辺野古の町はアメリカ海兵隊で溢れ、どこのAサインバーも、
ロックバンドを需要とする。
ベトナム戦で傷ついた若い米兵達にはROCKという癒しの薬が必要なのだ。
私たちのバンドは新たなメンバーで結成され、キーボードがメンバーに加わり
私はいよいよボーカルとして辺野古の荒くれ兵士の前で歌う事に成る。
月一回の休み以外、私が歌わない日はない。
一晩50曲ほどの楽曲が必要とされ、毎晩ステージに立つ。
其処には、酒とドラッグでハイになった米兵達が待ち構えていた。
彼らの獣のような唸り声は、セックス&ドラッグ&ロックンロールと何遍も繰り返し
私たちバンドに挑発してくるかのようだった。

海兵隊の殺気だった光景、彼らに認められたミュージシャンだけが
ここでは英雄とされ、崇められ生き残れるのだ。
声が枯れ歌えなくなる.しぁ枯れ声で喉の奥から搾り出すように歌う。
歌いたくても歌えない状況は私にとってなによりも耐えがたい不幸であった。
どうにか声を出したくて何度も病院に通った。
医者は私にこう言う。
「喉ボロボロだねー、血が滲んでザラザラに傷ついてますねー。
もう、これ以上歌ったら出血して声も出なくなりますよ。」
それでも私は歌うことを止めなかった。喉は腫れ息苦しく物を飲み込むのも辛い。
歌う以外、声を使わぬよう一切の会話をせず、冷たい飲み物禁止、刺激物禁止
喉を冷やさぬようクーラーや扇風機なども私から遠ぅざけた。
私にとって歌うという事は自身の存在、(Identity)の獲得だったのか?
歌いすぎや風邪で喉が遣られる経験は誰でもあるとは思うが、
それでも歌い続けるという根性が絶対必要だ。
ROCKボーカルに成るには喉を鍛え強くならなければ、シァウトなんて出来ない。
何度も何度も喉を潰し又歌う。その繰り返しで私の喉は次第に鍛え揚げられ
HARD ROCKのShoutを難なく叫ぶ事が出来た。
(黄金ののどを持つ女性ロッカー、マリー)と、
米兵達は噂を広げ、聖母マリアとも呼ばれるようになった。

  


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2015年08月07日

真実の叫び12  Aサインディズ

Aサインディズ

オジーのラジオから母のレーコード、コザのストリート、ベトナム戦 米兵から貰った音楽、
それらの音楽環境で1970年代一人の混血児女性ROCKボーカリストが誕生した。

発のバンド名をMEDUSAと命名、
基地の町辺野古から続いて金武町を経て米兵の住処である、
金網の中へと進出して行った。
海兵隊、海軍、空軍、陸軍と沖縄中の基地を周り歩き
米軍に乗り込んでいった。
基地内の娯楽施設ではバンドの為のステージが用意され、
満杯のホールには熱気ムンムンのアメリカ兵がビールを何本も一揆に飲み干す。
ライブが始まるのを今か今かと待ち構えロックンロール!と叫ぶ。
私達のステージが終わるまで叫び続け静まることはない。
凄まじい歓声とともにバンドの音も大音量になる。
私の声がかき消されないように。体中のエネルギーを使って大声で歌う。
PA「ボーカルスピーカー)などなかった時代、大きな声が勝負だ。
あのころの日々あってこそ後にロックの女王と呼ばれたのであろう。
ライブ後にはバンドの評価が記入された成績表が渡される。
その成績表のトップである私たちバンドは沖縄中の基地から歓迎され、
米兵達が放つ噂はローカルに広がりMedusaというバンドが次第に注目され始めた。

1972年 沖縄は本土復帰を迎えたが、アメリカ軍政下で多感な時期を過ごし、
アメリカーと言われ続けた私には、沖縄は米国に成れば良いと密かに願っていた。
日本人にもアメリカ人にも成れないとの葛藤がまだ心の奥底にあった。
琉球政府から日本国籍のパスポートに変わり日本人という証明は得、 
時代が欲するまま今度はナイチ(本土)に占領されるかのようだった。
復帰後の沖縄、アメリカ軍から開放されるように道路は左ハンドルから右ハンドル
ドルから円に変わり米兵相手の繁華街は内地の観光客狙いへと変わって行った。
同時に米軍の数が減少、米兵相手のバンドが次々に解散、
私達のバンドも解散と追い込まれて行った。
音楽も動乱期へと突入、基地産業経済悪化と進んで行く中
夫は家族を養うため職探し、4歳になった息子、
そして私のお腹には新しい生命が宿った。


前夫の長い結婚生活の中で私が主婦となって家庭にいさせてもらったのは
Aサインdaysが終わったとも言える本土復帰後のわずか3年ほどであったが、
トラック運転手になった夫、家庭で子の面倒を見る妻、
普通の生活といっていいのか?Aサインから離れた私達家族の環境はガラリと変わった。 
ミュージシャンの頃、酒 ドラッグ ギャンブル、女と、何にでも手を出す夫は
私がバンドに一員になってからもライブが終わると
一人で夜の街へ出かける人であったが、
長い髪をバッサリ切り父親らしく振舞うようになり、
私は朝から彼の弁当作り、学校へ通う子供の送り迎え、そんな毎日が続く平和な日々
もう二度と私が歌うことは無いだろうと思っていた。

ところが、運命は私から歌を解放することなくその後再びステージに立つことになる。
本土復帰した、とは言え沖縄にはまだまだ多くの米軍基地がある。
基地周辺の町はAサインバーと呼ばれる(米軍からの許可Aサインがある店は米軍相手に商売が可能)
ライブハウスやレストランが立ち並んでいた。
本土からの観光客や報道、マスコミ等が基地の町見たさに(当時私はそう思った。)
沖縄を訪れるようになる。
沖縄本島の北部では海洋博会場の建設が始まり
回りにリゾートホテルが建設されて行く。

沖縄県民は本土復帰後の沖縄経済で新しい事業、生活に取り組んでいたようだ。
夫も新生活とも言えるダンプの運転手で仕事に精を出し私たち家族の為に頑張ってくれていた。
ある日夫の運転する大型トラックが事故にあう。海洋博建設の現場へ砂利を運び途中の事故だ。

映画Aサインディズ(崔監督1986作品)が上演されてから、
その場面は有名になったが、映画はあくまでフックションである。
私の役を中川安奈が演じたことで歌が駄目だとかの批評が
世間から聞こえてきたが、私は決してそうは思わない。
むしろ彼女が喜屋武マリーを体当たりで演じたことに心から感謝している。
中川安奈さんとはその後東京で何度もお会いし、
交流をさせて頂きお互いの状況など話していた友人だ。
病で若くに旅立って行ってしまった中川安奈さん、
残念で信じがたい悲しみである。

事故の後、前夫はこれからどうするかと悩んではいたが、
以前のように毎晩コザの夜の町へと出かけるようになった。
友人達と音楽の事でも話していたのだろう。
トラックを失った今、彼が選んだのは再び音楽業界へ戻ることだった。

バンドメンバーを集めミュージシャンへと逆戻りした私たちは
金武町の一角に自分達のライブハウスをオープンした。
古いAサインバーを改装、壁一面にレコードやstrings系の楽器が飾られ
ステージが設けられ,店の入り口にはMarie with medusaの大きな看板が目立つ。
新メンバーで構成されたバンドは≪Medusa≫から≪Marie with Medusa≫に変わり
米兵で足の踏み場もないほどの満杯の客、
本土からの客が増え始め次第に報道人も増えだした。

自伝 真実の叫びを書き始めて5年の月日が経ってしまったが、
あの頃出会った友人や、世話になった方々が
一人又一人とあの世に旅立って行く現実、いつかは私もあの世へと旅立つ日が来る。
地球規模で見るとちっぽけな一人の女の人生。
私が真実を書くことで、非難する人が現れるかも知れない。
傷付く人が居るかもしれない、私はそんなことを思いながら自伝を書いているが、
沖縄から生まれた一人の女の人生にこんなのがあったのだー。位で受け止めて欲しい。

https://www.youtube.com/watch?v=_9iKBaf5rL8
  


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2015年08月07日

真実の叫び13  本土への進出

本土への進出


1979年クラシックロックという音楽に誰もが魅了される時代が遣ってきた。
本土でも洋楽ロックバンドが次から次へと音楽業界を制覇し始めたが、
沖縄ロック《米軍によるアメリカ本土直輸入洋楽)ものは存在せず、
日本語の歌詞で形成されたポップバンドが主流。
まだ女性ロックボーカルなど存在しない時代
レコード業界は女性ロックボーカリスト物色をしていたように思えた。
沖縄に存在する(ジヤンヌダルク)たる人物、私という女を、
どうにか本土からデビューさせようと各レコード業界が私への説得へと向かった。

本土への進出を考えはじめた私達のバンド。
本土レコード業界の契約到りバンドメンバー無し
ボーカルのみと言われ、迷いが請じる物のバンドメンバーとの話し合いの末
大手のレコード会社CBSソニーと契約を交わした。が、
レコード会社は私が日本語で歌うとどのような感じになるかと、
一曲でもいいから日本の楽曲をコピーし録音して、本社に送ってほしいとの要望がきた。
米軍相手にクラシックロックを歌う私に日本語での歌唱力を検針するという事だ。
当時、日本の歌謡曲など殆ど聞かなかった私、
さー、どうするか?何を歌えばいいのか?見当も付かず困っていた。
タイミングよく現れたのが、あらい舞で有った。
それも運命の出会いというものだろう。
あれから彼女は心の友になり、現在まで私の支えと成る友人だ。

舞ちゃんはrock音楽を勉強したいと、
1970年代後半80年代へと続く年に一人で沖縄に遣って来た。
あの頃の沖縄は復帰も終え、少しばかり落ち着いてはいたが、
まだまだ基地の町は米軍の為の繁華街が立ち並び
いくつものロックバンドが居たころだ。

私達BANDが金武町で米軍相手にライブをしているところに彼女は遣って来た。
そんな危険だらけの場所に、若くて色白の女の子が迷い込んだ雰囲気だった。
私がちょうど、本土のマスコミから注目を受け始めた時期でもあった。
舞ちゃんは、私にこう言う。
「マリーさんに会う日本の楽曲でしたら、絶対にお薦めの曲があります、
彼女はピアノを弾き始め歌いだした。
彼女が歌って私に紹介してくれた曲は、一度も耳にしたことは無かったが、
私はすぐに気に入った。少しブルージィーで心にしんみりと入り込む曲、
≪大阪で生まれた女≫ ボロの楽曲であり、当時大ヒットをしていた模様だ。

舞ちゃんにピアノを弾いてもらい歌を教えてもらい、
そのまま自宅でカセットテープに録音CBSソニーへ送った。
舞のピアノ一本と私の歌、自宅で簡単に録音、
そのまま会議にかけられるのを知ってはいたが、
ラフテープでのオーディションで契約無しになろうが、さほど心配もせずにいた。
それから、舞はしばらく私達家族と一緒に暮らし家事や、育児などもしてくれて
金武町のライブハウスでバーテンダーをしたりで、 
私達の友情物語はこうしてはじまった。
あれから、私達はそれぞれの音楽への道へと進んでいったが
40年後、私の最後の歌を見届けた≪あらい舞≫
彼女と私は、不思議な縁で結ばれた最高の友人である。
初めてあった時からいつも笑顔を絶やさず、
≪辛い事など、一つも無いよ≫、という彼女の姿勢は
現在でも変わらず、舞の側にいると誰もが安心を得られる。
そういう女性シンガーソングライターなのだ。

メンバー を沖縄に残し、デビュー曲(狂い咲きライラック)を発表、
私は一人で本土での活動へと向かった。
各局のテレビ、ラジオ に出演、沖縄からデビューを果たした私は、
ものめずらしい目で見られた。
基地を知らない本土の民衆にとっては、
当時沖縄出身の、混血児新人歌手は刺激になる存在だったのだろうか。

ナイチ「本土)の大衆に受け入れやすい楽曲が用意され、
東京在住ミュージシャンが、私の楽曲を演奏する事になった。
デビューしてからと言うもの沖縄と東京を何度も往復し
故郷では自分のメインバンド(MEDUSA)との活動を続けて行った。
地元の反応は日本語で歌う、私を喜ぶ人と幻滅する人とが半々だ。
オーディエンスの感情は一人ひとり違うものであるから
私達音楽家は発表する楽曲によって、非難を浴びたり歓喜を浴びたりだ。

レコード会社は私を売り出そうとあらゆる戦略に出る。
テレビの深夜番組 トーク番組 ラジオ イベント、
衣装係やメイク係 私のために準備された東京のスタッフ。
沖縄では学べない芸能人のプロ根性という者を教わり
私は段々と内地の業界に馴染んで行った。
1981年 First live 《大阪厚生年金ホールライブ収録》を発表
英語から日本語の歌詞へと変わり数々のイベントへの出演、ローカルの歌番組やCM。
その頃地元では沖縄Rockも米兵相手から日本=沖縄の大衆へと変わっていった。
この年から1990年ごろまでは私がROCK歌手としてもっとも活躍した
10年だったと憶える。
私の音楽を聴いたことがない一般の人々にもマリーと言う人物が浸透
地元では、私の名前を知らない人は居ないほどであった。
本土はバブル経済へと向かいゲーム機や音楽機材など次々と出現、
音楽業界も湧き出る金で新人を次々と発掘、外タレと呼ぶ外国芸能人が
日本来日公演文化産業は留まることなく発展して行った。
押し寄せる私への出演以来、考える暇も無く音楽活動に没頭、
ひとつ又ひとつと仕事を片付けるばかりだ。
1980年代から本島南北部を中心にリゾートホテルが増え始め、 
本土化される那覇の街へと誰もが目をむけるようになった。
音楽は沖縄県の観光産業の目玉となり沖縄代表歌手マリー、
沖縄の発展のためのミュージシャンと言われ、
音楽取材共々基地問題の取材が耐えることなく押し寄せて来た。
米兵の落とし子混血児は次第に差別が無くなるとともに
格好いいハーフと言われ誰もがあこがれる存在になっていった。
アメリカ党治下で生きてきた沖縄の混血児がカッコイイのか?
今まで苦労して培ってきた自分自身の音楽を続けるべきか?もう後には引けない。
私の心は揺れるばかりであったが、本土の芸能界は金が成る木を探すかのように、
沖縄からの芸能人たるものを物色し始めた。沖縄戦後を知らない本土の人々にとって
沖縄は新たな魅力な島に見えたのかも知れない。

1984年MARIE TIME FLOW 発売
米軍に向けるハードロックから益々日本語で歌う柔らかなポップミュージックに変わり
私は本土のメディアと沖縄のメディアを行ったりきたりしながら、
県内のCMに多数出演多忙な毎日が続く。
一方米兵の町、コザや金武町の経済が衰えて行く。
それではいけないと、オキナワンロック音楽は地域活性化をテーマに掲げた
ピースフルラブ・ロックフェスティバル(1983年開催)
先輩ミュ-ジシャン達が築き上げてきたオキナワンロックの情熱は
止まる事無く燃え上がり、本格的に本土と沖縄人相手に音楽活動を展開。
そのころ、金武町にある私たちのライブハウスに不幸が訪れた。
米兵客によるタバコの後始末が原因で火事により全燃、
楽器機材すべてが灰となり消えてしまい、店は閉店となった。 

ヒット曲とはその時代が作り出す。私が音楽環境で得た言葉だ。
時代の波長に上手く絡み合うと歌が上手で有ろうが
イマイチであろうが大衆に受け入れやすく話題となりヒットする、
それは音楽に限らず全ての商品にも値すると、私は思うのである。
時代の変化とともに消費者が欲するものは変化する。
CBSソニー所属の頃、私をその時代に合わせた歌謡Rockで売り出そうとしていた。
アンルイスやチェカーズがヒットチァート入り、アンルイスの歌う曲、
六本木心中などはまさにその時代が欲する名曲だと思う。
音楽業界は大金が転がり込む様なヒットが欲しい。
プロデューサーや音楽制作者は常に誰かいない者かと物色をする。
米軍基地から見つけてきた沖縄ROCKシンガーを
歌謡ROCK歌手に変えようとしていた。
デビューしたばかりの私は訳のわからぬまま、
在るが儘に、本土事務所の戦略を受け入れた。
今まで血を吐くほどにシァウトしていた私はもうシャウトなどしなくていい。
髪を振り乱し戦士のように歌わなくていい、
米軍基地では無いのだから、命がけで歌わなくていい。
ビール瓶など飛んで来ないのだから。




  


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2015年08月07日

真実の叫び14 基地と冠

基地と冠

沖縄に戻った私は自分の拠点となるBand (Medusa)と共に
ローカル中心で活動を再開したが、
自分のこれから目指す音楽とは?と、常に考えるようになった。
クラシックROCKカバーバンドが多数を占める地元沖縄、
米兵の為の音楽が未だに盛んだ。
Aサインバーには観光客も増えたが米兵中心だ。
東京のオリジナルティ溢れたRockBand, 
歌謡ROCK、それぞれから学んだ事で、
私は自分達のバンドだけにしかない音を探していた。
前夫はミュージシャンを引退、自身の音楽事務所をオープン、
バンドのマネジャーと成った。
同時に新ジェネレーション(沖縄Rockから離れつつある)
音楽感性を求め私より10歳も若いメンバーを新メンバーとした。
彼らは沖縄で育ちオキナワンロックも充分に知っていて本土化された沖縄も知っている。
私が目指す,これからの音作りには欠かせない重要なメンバーだ。
幸いに私は素晴らしいメンバーに出会えた。
沖縄Rockもナイチサウンドも柔軟にこなすミュージシャン。
アメリカ世からナイチ世に変わった今、彼らは非常に有能な人材となっていく、
と私は確信、彼らとともに地元沖縄でアルバム作りに精を出した。
沖縄、アメリカ、本土 と、この三つの血が流れるようなサウンド作りに没頭。
英語の歌詞と日本語を取り混ぜ、沖縄の匂いがする楽曲だ。

Marie With Medusa の新しいサウンドに
若いメンバーの音楽感と本土のミュージシャンを参加させたことで、
沖縄Rock創造主達にこんな事を言われたりもした。
『ナイチャーフーニーサンケー』(本土の人見たいに振舞うこと)をするな!
『沖縄Rockもわからん者をメンバーにするな』、とかだ。
そのように発する先輩達の言葉など私は一向に気に成らず、
未来の沖縄出身ミュージシャンが差別なく本土や世界で活躍することを願っていた。

その翌年、朝日テレビ トゥナイトにゲスト出演した私は
作家利根川裕氏と接触、私と言う人物が利根川氏に興味をもたれる。
利根川氏の長いインタビューの末、本が発刊喜屋武マリーの青春《1986年》
全国高校の図書に沖縄戦後の参考書として配布された。
その本のおかげか修学旅行などで私のライブを見学、沖縄の観光風物氏とされた。
沖縄戦後を知る上で若者の読みやすい本に仕上がっている。
と、ある高校の教師は語っていたが、
利根川氏のインタビューの際、語られたのは前夫の言葉だ。
インタビューで私は自分の思う真実を語りたかったが、入る余地も無く
私が話す言葉は実に少なかった。
出版された本は≪喜屋武幸雄の青春≫沖縄戦後歴史ではある。
今更ながらではあるが、題名を変えてほしいと願っている。
その本を読まれた方からの意見、批評でもある。
出版された本、映画(Aサインディズ)、
真実では無い私自身に付いては共感が持てなかったが、
そのお蔭でファンが増えたことには感謝した。
私のライブに現れた本土の何千人もの学生たちの前で全力で歌う私
Rockボーカリストとして最前を尽くした。
ライブが終わり、彼らは大興奮で帰っていったが、
沖縄戦後歴史と音楽の真髄にでも触れたのだろうか。

1989年《I was born in Okinawa》というタイトルが付けられたアルバム
Marie With Medusa 初アルバムを発表、私に取っては三枚目のアルバムになる。
《私は沖縄生まれです》と沖縄を前面に出したのは本土復帰も終え、
時代が内地へと変革する今、基地の町の看板を背負い培ってきた
沖縄ハードロックは伝説化されつつあった。
米軍相手に音楽で戦ったオキナワンロック、
日本なのかアメリカなのか解らない沖縄の現状。
私がこれから目指す音楽はオキナワンロックが真髄にあり
ナイチのサウンドが混ざりあう新しいサウンドだ。
その中で沖縄というアイデンティティを見せたかったからである。

新しいMarie with Medusaのサウンドに私は誇りを持ち
地元からメンバーを引き連れ堂々と全国ツアーへと旅立った。
その頃からロックの女王と冠をあたえられたが、
ロックの女王という冠は音楽の黄金の冠ではない。
その冠にはウチナーンチュの矛盾の怒りと基地問題が染みつく。
アメリカーは帰れと言われ続け大人になった私には、
沖縄ロックの女王と呼ばれるのに抵抗があった。
Marie With Medusa のライブ会場には沖縄基地問題を取り上げる観客、
県人会、残りはほとんどがミュージシャンか純粋な洋楽ファンであった。
本土の大衆に受け入れられる音楽作りサウンドはやはり無理であった。

私たちの全国制覇の旅は沖縄地図を描いたティシャツと
沖縄地図の旗を掲げ北海道から鹿児島へと
日本中隅々までに及ぶ戦略だった。
まだ本土ではマイナーでしかない私達のバンドは、前夫の呼びかけにより
沖縄地元のマスコミや企業がスポンサーになり、私達を支えてくれた。
全国に居る沖縄県人会はわたしたちを心から迎え入れ励まし協力、
Asian rose というファンクラブが出来あがり、
忘れては成らない戦後の動乱期を生き延びてきた同士だと云われた。
ライブ活動の先々で音楽取材よりもはるかに多い基地問題取材、
沖縄県人としての責任が私に重く圧し掛かってきたように思えた。
ロックグループ Marie With Medusa は、反戦は訴えたものの、
基地問題歌手になりたくて私はボーカルに成ったわけではない。
自分自身の心の壁を打ち破りかったからである。
復帰後、沖縄に目を向けた報道人が基地問題を取り上げるには
格好の人材《喜屋武マリー》 に注目したのだと私は考える。
それも≪喜屋武マリーの青春≫という本が出版されたからだ。
あの時代に私が沖縄からデビューしたことが必然となったのか?
沖縄という土地でなければ私の状態も違ったかも知れない。

《 Marie with Medusa》という伝説のバンド
私たちは、地元から盛大な応援を受け時代の欲するままに立ち向かい戦いに出た。
内地のバンドには絶対に負けないという根性を先輩達から植え付けられ
ステージでは死ぬ覚悟で全力を尽くせと、言われた。
ナイチャーには負けるなよー!を放つ先輩達の言葉の意味、
ウチナーンチュは(日本人から差別を受けた事があるという証言)に寄る物なのか?
それではウチナーンチュからの混血児への差別は?アメリカーへ帰れ!で差別され
有名人になったら、アメリカーって虐められた子も
ウチナーンチュの宝になるのですか?
と、突っ込みたくなるが複雑な矛盾が入り混じった当時の沖縄
人種差別は混血児だけでは無く、
ウチナーンチュの味方をしないすべての人に向けられた。
ウチナーに住みたければ彼らの意見に反撃してはならない。
≪Yes≫と返事をすれば上手く治まり、仲良く遣っていける。
そんな時代が沖縄にはあった。
本土企業や本土の音楽産業、本土のミュージシャンの素晴らしい面を
私が話し始めると直ぐ言い争いになる。
お前はナイチァーの味方か?などと責める。
敵、味方で判断をすると物事は永遠に解決無し、
人種差別とは相手に対する焼餅からも生じる。

本土でのライブを終えて故郷に帰った私たちは、
沖縄の宝と言われるようになった。
《沖縄の宝》沖縄が作り出した商品、著作権が沖縄にある。
と、いう意味にも 前夫が作り出した商品とも受け取れる
そのことが解るのは後に私の離婚騒動が始まった時だ。
やがて沖縄基地撤去運動、イベントなどが私達のステージとなり、
地元の選挙争い、まで巻き込まれるようになってきた。
ミュージシャンとは音楽だけでは成り立たない。
政治的問題までも付いてきた。沖縄問題を解決するため
政治家にならないか?との声も聞こえてくる。
私にとって基地とは何なのか?
基地がなければ私という人物はこの世に出現しなかった。
米軍基地の落とし子なのだから。
私と同じ時代に産まれ世間からアメリカーに帰れ!
と虐められた沖縄の混血児達に県と日本政府の解決策は?
米軍の落とし子を抱え辛い人生を生きた母達に
国からの助けはあったのだろうか?
沖縄アメリカ統治時代、問題は置き去りにされたのではないだろうか?
基地の環境がなければ沖縄ROCKも無かった。
基地撤去に反対する民衆は私に何を求めている?

沖縄Rock創世記時代、異国人に我が地を乗っ取られないようにと戦っていたのか?
(沖縄ロック第一奏者)にとっては米軍から貰った音楽は何だったのだろうか?
我が地を守る手段であったのであれば敵国の武器で戦うようなものだ。
そこに私という、歌うために生まれたような女が現れた。
私の音楽感も先輩達からの教えでモチベーションが変わって行った。
私は好きな歌が歌えるだけで良かったのだが、
報道やマスコミ等で私の人物成るものが書き換えられていった。
ベトナム戦の最中にボーカルになり混乱の時代に
沖縄からデビューした事に何か運命的意味があったのか?
ロックの女王という冠は、米軍基地で鍛えられた喉ではないのか?
冠は基地問題を抱える女騎士、戦う武器は天により授かった声。
私は沖縄で有名人になればなるほどに、矛盾だらけの解けない謎を
報道陣の取材の前でどう答えていいのか?混乱だらけの頭と心。
歌手という評価よりも人物の論争。

私には大ヒット曲というものはない。
マスコミが作り上げた基地の町の混血児がヒットしただけなのだ。
そんな悩みを心奥底に抱え何度も歌を止めるべきか?と光と闇のなかを交差した。
そんな私の状態を母が知ることになる。
彼女は言う。歌う事が苦痛ならば、歌うことをやめなさい、と。
身を投げ売ってでも全力を尽くすという私の姿勢と真剣さが酷に見えたのだ。
どんなに体調が悪くても必死に歌う私に、何の為に貴方は歌っているのか?
という疑問を投げかけ、私の歌は何かと戦っているようにしか聞こえない、
と言っていたものだ。
母の言葉は正しい。私の歌は常に戦いの歌であった。
混血児の戦いであり、父の国アメリカ、母の島ウチナー、
母が故郷に戻りたいと言い残した最後の言葉、、、、
私を案じて居たのか?
音楽という神に助けられ歌は生きがいであったのではないか?

ロックという音楽は魔物のようだ。
音楽が大好きでステージに立つとエネルギーが充電され命を呼び起こす。
ステージから離れると空虚となる私が出現、また歌わずにはいられない。
表と裏側を行ったり来たりのボーカリスト。
最高のBand メンバー、 私を一番理解してくれた。
新Medusaの若手のメンバーに出会え、音作りはこれからだ、と言う時に。
心は闇に閉ざされて行く。
いったい私はどうなってしまったのだろう。

  


Posted by Asian Rose Marie at 01:00Comments(2)kyan Marie 自伝

2015年08月07日

真実の叫び15 BURNING BLLOD

  BURNING BLOOD

沖縄戦後を知らない平和な時代に生まれ育った若いタレントや歌手
誰もが本土でのデビューを理想にし、未来への夢へと育む時期が来た。
米軍相手に戦う音楽の存在は時代と共にどこかえ消えてしまった。
沖縄出身と言う魅力で本土芸能人と隔たり無く扱われる存在だ。
混血という人種はいつの間にか魅力的になりRock Band には最適な人物とされた。

その一方で沖縄の抱える現実、片付かない基地問題。
何度も何度も繰り返す基地問題の取材、
声を高々に何千回何万回と訴えても解決できない問題、
本土のメディヤは取材を終えるだけで何事も変化なし。
そんな基地問題に私自身精神的な疲労を感じ、基地問題取材を拒否、
音楽雑誌や楽器関係にどんどんアッピールして行った。
ミュージシャン活動メインに取材を増やし、
本土のライブハウスを基点に活動を増やしていった。
本土のミュージシャン達や音楽業界にも仲間が増え始めた。
私達バンドは外タレ扱いとされ(外国人アーティスト)イベント会社と契約
契約会社の提案で《喜屋武マリーwith MEDUSA》にバンド名を変更した。

本土が企画するメジァーなイベントなどに多数出演,本土ROCKフャンが次第に増えだし
私達単独のライブ会場は満杯の客で溢れるようになった。
喜屋武マリーwith MEDUSAは本土でメジァーバンドに成りつつあったが、
ヒット曲がまだ出せない事でバンド共々沖縄から東京へ上陸出来ず、
私は単独本土と沖縄を行き来活動をしていた。
喜屋武マリー、 ソロで活動を始めたことで、
数々イベント番組にゲストで登場させて貰った。
1991年《NAONのYAON》というイベントにゲスト出演
日本を代表する女性ロックグループに出会った。

本土の女性Rock Band と言えば誰でも知っている『SHOW-YA』だ。
SHOW-YA は数々の大ヒットを残した日本を代表するROCKバンドだ。
1980年代から活動続け《NAONのYAON》などのイベントを仕掛け
女の子バンドを活性化させたグループでもある。
その頃、私に北朝鮮公演の以来が飛び込んできた。
全世界初の北朝鮮での公演に私は驚いたが、
以前から北朝鮮公演が決まっていたSHOW-YAは
ボーカル寺田恵子の脱退で困ったことに成っていた。

HARD ROCKを歌えるボーカルはいないものかと、
いう矢先に私が現れたと言うことだ。
北朝鮮公演に向けて、バンドのメンバーと何度かリハーサルをしたが、
ドラムの角田美喜は私に気を使ってか、
「音が大きすぎますかー?」と聞いて来たが、
「いやまだまだ遠慮せずに叩いて下さい。」と、答える私に安心したのか大爆音。
彼女等の演奏は男バンドにも負けない力強さで圧倒的であった。
後にTBS(ギミアぶれいく)(北朝鮮激震、ピョンヤンにROCKが流れた日)
というタイトルでその模様が放映されたが、
北朝鮮現地では初めて聞くHARD ROCKの大音響に戸惑いを見せたものの、
音楽に国境は無いとはこの事か、
次第に大歓声で盛り上がりSHOW-YAとの北朝鮮公演は大成功に終わった。

北公演翌日、広島平和音楽祭に自分のバンドであるMEDUSAのギターリスト
長嶺良明を引き連れて出演した。
音楽祭で世界のミュージシャンと共演した私に
素晴らしい出来事が起こった。
ジャニス・ジョプリンのバンド《ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー》
のギターリストに出会えたことだ。
ジェニスのアルバムは何度も聞いていたので、彼のギターサウンドも知っていた。
けして、上手とは言えないギター奏者、
サイケデリックの旋律でチュ-ニングが微妙なサウンド。
こんな感じでしか書けないが、ジェニスと接触があったという人物に感動した。

リハーサルを終えた所
楽屋に一人の背の高い男が私を訪ねた。
彼は話した。「MOVE OVER 最高だったよ。CD 聞かせて貰ったよ。」
日本にもジェニスを歌える人が居るんだ、
ジェニスを思い出させてくれてありがとう」、と言って来たのである。
「ROSEと呼んでいいかい?」とも言って、
沖縄に住んでいた事があるから沖縄も知っているよ」と、彼はハグをしてきた。
この出来事は一生忘れられない。
BURNING BLOOD のCDをどんな形で手に入れたかは謎であるが?
良明のギターソロには超びっくりしたのでは?と私は想像、急に可笑しくなった。
当時Iphoneやカメラなど持ってなく写真を取れなかった事が残念だ。
彼が私に見せてくれた一枚の写真には
プライベートのジェニスと彼が寄り添う姿があった。

イベントの出演以来の度に私は自分のバンド全員参加で行きたかったが、
出演料,事務所の予算などの事情によりソロでの出演を予備無くされた。
何しろ沖縄からメンバー全員引き連れてくるには
膨大な航空運賃と旅費が必要に成ってくる。
予算削減の為止む無く、せめてギター奏者 だけでもと私はお願いをした。
ロックバンド形成のなかで、歌に続く楽器はギターソロにあると私は重要とし
私たちバンドの音を正確に出したかった。
最新のアルバムBURNING BLOODには
良明のギターサウンドが多いに活かされていた。
その理由もあり、歌い手の気持ちを十分に引き出してくれる
彼のギター演奏には魅力があり、バンドを引っ張って行くリーダー的存在でもあった。
Bandの楽曲作りで私が旨く表現できず、困ったときなど、「あぁー、こんなかー?」
と、理解し他のメンバーにも私が求めるものを説明していたものだ。
彼の説明力は優れたもので、ドラム、ベース、キーボードと続くメンバーは
私の満足する音を正確に披露、私の歌心を十分に引き出してくれた。
私達バンドはお互いを信頼、個々が出す音を信じていた。
メンバー全員が出す音は私に安心感を与えその土台で歌う私は
自分のバンドに最大な誇りを持っていた。
彼らの根性、と頑張りがあったからこそ
真から欲する音が完成したのだ。

私はメンバーと音作りをしたりライブをしたり
ふざけ合ったりするのが大好きだった。
全国ツアー 年間200本の旅は、私の声が枯れて大変な時もあったが、
クルースタッフ全員の支えとメンバーの笑い声で最高なライブツアーが出来た。
バンドメンバーと行動することが私の唯一の楽しみになり生きがいでもあった。
彼らと出会えた事で自分の歌が生かされたと現在でも確信している

1990年にBMGビクターから発売された、
喜屋武マリー with MEDUSA(BURNING BLOOD),
ナイチとウチナーとアメリカの狭間で燃えさかる血=《BURNING BLOOD》
私のロック人生の終焉を飾るに相応しい最高のアルバムがある。
このアルバムを改めて聞くとあの頃の心の闇と希望とが見え隠れする。
アルバムに収録された全曲が、私にとって最後のアルバムだと
予言されて居たかのようだ。歌詞がそれを物語る。

オープンニング、炎の闇 は私の心奥底で燃え上がる炎を表している。
狂いそうになる自分を押さえつけ胸の闇を吹き飛ばそうとする自分。

、Ready for Love 米軍の父、沖縄の母 ボーダレスに求める愛の究極

 loving you 故郷から出て行く事に張り裂ける心、もう、行くね、って言わなければ。                                                     
 The stranger fly the night 私の歌は全てが戦いであった。戦士だ。

https://myspace.com/asianrosemarie/music/song/stranger-fly-the-night-5774805-5575989

 By my side Band メンバーに捧げる曲。希望の光

https://myspace.com/asianrosemarie/music/song/by-my-side-5774803-5575987

 二つの鼓動  どんなに嵐が来ようと挫けない自分への励まし。

https://www.youtube.com/watch?v=Uuo3-xxRtJE

 SO Long    いつかは別れる日が来る、友よ忘れない。私を支えてくれたファンに送る歌
                                     
 Never Chang 歌うことで生かされた自身の故郷への感謝 戻れなくても心に焼きつく。

  MOVE OVER 男と女の柵、葛藤、 全てを吐き出したかったあの頃の真実

  One more time  赤い薔薇の花びらがひとつ、又ひとつと落ちて行く
              枯れて無様な格好になろうと、すべてを許し受け入れる愛            

このような想いでBurning Bloodを歌っていた。メンバーには一度も歌詞の真実を話したことが
無かったが、ステージに一緒に立つことで見据えていたのだろう。音楽は正直である。
と聞くが、このアルバムに関しては見事だ。
音楽や歌は人それぞれの聞き取る側の気持ち次第で変化する。
私自身の音楽史では二度とこの様なアルバムは作れない。

https://myspace.com/asianrosemarie/music/songs



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Posted by Asian Rose Marie at 01:03Comments(0)kyan Marie 自伝

2015年08月07日

真実の叫び16,新しい扉

新しい扉

全国ツアーも終わり沖縄に戻った処、松竹株式会社から舞台出演依頼が来た。
舞台女優など今まで一度も考えた事も無かった私に、いきなりの主役抜擢だ。
舞台女優=台詞、ダンス 歌 と言う三拍子揃った役者,
そのような経験など一度も無い私になぜ?と言う疑問?答えを出せない私に
一度ロンドン公演を見て欲しいとの要望、
ロンドンで《ミュージカルブラッドブラダース》公演を視察後、
現地の主演女優との対談、原作者ウィリーラセッルに気に入られた事で
舞台女優への不安が少し解消された。
この感じだったら私にも行けるかな?と、沖縄のスポンサーや事務所と会議を終え
ミュージカル依頼を引き受ける事になった。

公演日までに時間が差し迫る。
直ぐに東京へ向かった私に厳しい舞台のお稽古というものが待っていた。
沖縄訛りをしっかりとした標準語に直すべき、私に先生が付いた。
あいうえお の一文字一文字からの発声練習。それからセリフ、ダンスと続いた。
舞台女優、男優、と対面、舞台公演に向けての記者会見で
沖縄訛りと英語訛りで舞台挨拶を終えた私は、出演者一同に唖然、
柴田恭平、三田村邦彦、川崎真世、他にも役者一流揃いの出演者に、
再び私に出来るかな?の不安が頭に過ぎったが、、
出演者全員が舞台ド素人の私を分け隔てなく迎え入れ
女優第一歩は関係者の励ましや、心深い親切な俳優達と出会えたことで
私の不安は解消されていった。

お稽古休日の時間まで割いてくれて個人的に台詞併せをして頂いた、
女優久野綾希子さんのお蔭で、どうにか台本を暗記することが出来た。
24時間私の頭の中では台本の台詞が踊っていた。
私の役柄は7人の子を抱え亭主に捨てられた貧乏な母親(ミセスジョンストン)
原曲が英語であるので、岩谷時子先生により日本語の歌詩が付けられた。

才能豊かで愛情溢れる作詞家、岩谷先生は私に何度も『これで歌える?』と聞いてきて、
歌詞の変更を手掛けていた。『マリーが楽に歌えるようにね。』と、先生の暖かな笑顔。
ブラッドブラダースの楽曲は、ほとんどミセスジョンストン役(私)が歌う為 
Rock シンガー出身の私に気を使ってくれたのだろう。
歌の表現力、歌詞は台詞以上に大事 正確に歌うこと
など、熱心に指導頂き他の出演者に焼きもちを妬かれるほどであった。
私生活なども心配頂きお休みの日はゆったりおしゃべりで何時間も先生と過ごし、
個人的にも交流を深めて行った。先生への感謝御恩は
今でもしっかりと私の心奥底で生き続いている。

昭和初期から数々のヒット作品を生み出し、作詞家超一流である、岩谷時子。
私がミュージカルに出演することが無ければ大先生に出会える事も無かった。
人間の縁とは不思議なもので信じがたい出来事が起きる。

一日2回公演で20楽曲に台詞、60本公演でたった一日だけ休日
声と身体を休ませる時間は無い。
ROCKで鍛えた喉は声が枯れ、台詞の笑い声など殆ど発声出来ないほどであった。
ミセスジョンストンの代役は他に居なく、どうにか声を出さなければ、
舞台に穴を開けたりすれば大変なことになると、体調管理が仕事のように思われた。
「やっぱりなー、舞台素人には無理だったなー」って感じに言われるのだろうなー?
とか、思い悩み、一回一回の公演に必死に取り掛かかって行った。
舞台が終わると直行 宿に戻り、部屋を乾燥させないために加湿、喉うがい、吸引
睡眠を取り、舞台以外に声を出さないという徹底ぶり。

それでも声の調子が酷くなると、女優さん達から教しえてもらった、
声が出るツボに針打ち、整体などを受け頑張った。
ファンから私への差し入れはのど飴だったり蜂蜜だったり喉の為のもの。
きっと苦しいそうに話す台詞などで、それが感じ取れたのだと思う。

舞台公演中は沖縄訛りに気をつけるべし、と演出家から指示を受け
公演以外の私生活でも言葉を発する時は、正しい標準語で話すよう心がけていた
一方、前夫の立場はミュージカルの場では入る余地がなく、
沖縄からの観客を増やそうと沖縄県内でのチケット販売を手がけ
私の初ミュージカル出演に多くのウチナーん-チュ観客を多数引き連れてきた。
彼は彼で私の初舞台を成功させようと一生懸命に働いてくれていた。
しかし、公演中は時々上京する彼との会話にも気配り出来ず
彼は上京する度に私に朝まで説教をするようになり
私には疲れた身体と睡眠不足で声を失う辛さがあった。
ミュージカルを引き受けた日から夫婦仲が壊れ悪化する恐怖と
夫とのやり取りで疲労する毎日
常日頃から俺の作品(喜屋武マリー)だという前夫には、
新しい扉の向こう側で演じる私の姿が自分の管轄では無い事、
彼が言う私という作品を誰かに取られるとでも思ったのか?
それともナイチャー言葉で話す私が離れて行くとでも思ったのか?
内地のプロデューサーや、演出家の言うことを素直に聞く私を
気にいらなかったのか?
そんな悩み葛藤の中で、一からお稽古を受け舞台を成功指せるべきと私は必死だった。
夫婦仲が悪化する度にミュージカルなんて引き受けるのじゃ無かったと後悔する日もあり、
カレンダーに縦線を引き千秋楽を待ちわびた。


ROCKボーカリストはマイクで歌いなれていて声が枯れようと、
PAミキシングの力でどうにかなるものだ。かすれ声は魅力にもなるが、
舞台ではかすれ声だと聞こえが悪い。
髪の毛間に仕込まれた小さなマイクで地声が遠くまで届くように歌わなければならない。
お稽古の始まった日からえらい事になった。と思っていたが、
ミュージカルは実にしんどかったのが本音だ。


私の舞台女優に対しての評価は歌以外相当悪く、沖縄訛りでの台詞、
演じ方や動作がロボット見たい、などと読むほどに落ち込む私であったが、
舞台を毎日熟して行くうちに私への評価も改善、
千秋楽の頃には歌に説得力がある。
ミセスジョンストン役は,ピッタリだ。と記されるようになった。
そんな記事を読むと、嬉しくなり自信が付き始め
舞台女優としての自分に意欲的にもなれたが、
沖縄から私の舞台を見に駆けつけて来た方々の評判は、
「やっぱりマリーはROCKが良いよね、」と
がっかりして帰って行った地元沖縄のファンが大多数だった。

舞台も無事千秋楽を迎え、一度沖縄に戻った私だが、夫婦中は益々悪化、
あれほどミュージカルなんてやらなければ良かった、
と後悔してはいたものの、ブラッドブラダースの再演と共に私は沖縄を後にし、
同時に娘が上京、彼女が私のマネージャーとなり、へこたれそうな私を支えてくれた。
娘は私と共に東京に在住、再再演と舞台を続ける私を助け、
舞台仲間や周りのマネージャーさん達とも直ぐに仲良しになる才能の持ち主。
舞台で疲れ果てた私の代わりに、出演者や関係者に笑顔で充分な気配りをし、
情報交換などのお付き合いにも積極的に参加、私に舞台以外の心配はさせまいと
最高の働きを見せてくれた。
彼女の助けと笑顔が私の活力源に成り舞台を続けられたのだ。

≪ボーダレスラブ≫沢田研二主演、で女優の余貴美子と出会えた。
彼女は映画 Aサインディズに出演したとあって
私達はすぐに仲良くなり、現在でもお付き合いさせてもらってる。
舞台やテレビなどで忙しい中、時間を割いて私に会いにきてくれた。
余貴美子ほど個性的で素晴らしい演技力を持ち合わせた
女優さんは、日本にはいない。
沖縄ドラマちゅらさんに出演していた彼女は、
私のウチナー口どう?とか聞いてくる可愛い人でもある。
私は友達以上に彼女の大ファンだ。

それから舞台≪スサノオ≫に出演、鳳欄さんや高木澪さんに仲良くして頂き、
私の演技力を助けてくれた。
東京で知り合えた友人や女優さん達 皆様親切で謙虚な方々で、
ウチナーンチュ訛りの私を受け入れ
差別などなく、ウチナーンチュが言うヤナナイチァー(嫌な本土の人)など一人もいなかった。
私は東京での生活の方が安心できた。良い友人達に出会え、離婚問題で苦しむ私を助けてくれた。
友人達の励ましや助けで頑張れた、私の10年間はあっという間に過ぎて行った。
その間に私は一度も故郷沖縄に戻ることは無かった。
いや、戻りたくても戻れない状況であった、が事実だ。

東京へ移って2年後に私は(喜屋武幸雄)と離婚、沖縄の事務所を離れ単独の道を選び、
芸名≪喜屋武マリー≫から≪マリー≫に変更、
芸名を変更したことにより今までのファンの間から、
マリーだけでは、どこのマリーか解らない?しっくり来ないなどの意見があったが、
離婚するならば喜屋武マリー芸名、沖縄でのRock Band活動、著作権など
(すべてが自分の物)だという彼の言葉に
たとえこの先、歌が歌えなくなっても人生の新しい扉を次々に開くべきだと決心、
芸名≪MARIE≫に戻した。

一度有名になった芸名を変更するには困難というものがあったが、
彼の商品でありつづける≪喜屋武マリーという物体≫は、いったい何者か?自身ではないのか?
商品である前に一人の人間としての、生きる権利も不定されたような残酷な悲しみに突き落とされた。
ミュージカルとRock Band 両方に意欲があり、両立を目指していた私であったが、
その提案は受け入れられず、離婚と同時に喜屋武MARIE With MEDUSA継続は不可能とされた。

離婚は突然やってきたのではない。
16歳に彼と出会い結婚した者の、私が彼の気に食わない言葉を発すると暴力を受けるようになった。
17歳で子どもが生まれ学歴もない混血児故にまともな職も無い。
ボーカルになりたくて彼と結婚した、暴力を度々振るう夫との結婚生活は恐怖そのもの。
その事を知った母は私を心配してこんな男とは別れなさいと口走って居たものの、
幼子をかかえて帰る家もなくいく所もない。
それでも勇気をだして、離婚を試めしたが
前夫に承諾を得ずその事で又殴られる始末。
やがて私がROCKボーカリストとして名を上げたころは夫と妻以前に事務所社長、
商品(私)という関係が重視、
24年間の長い結婚生活は彼からのDVに耐えながら歌うしかなかった。
マスコミやテレビに映し出される私達は円満そのものに見えただろう。
前夫は最高の人物に見え誰もが私の為に一生懸命働く夫だと信じてた。
実際にそうではあったが、気に入らないと殴る人でもあった。
沖縄では「言うことを聞かなければ殴ってでも言い聞かせ」
と、まるで暴力を後押しするような風習がある。
殴る事は愛情があるから、だとも言う、間違った信念みたいな理解し難い事だ。

暴力男は世間では非常に親切で、誰もいぬ場所で暴力を振るう。
その後何事も無かったように振舞う。
暴力を受けた女たちは何も言えず、黙って見過ごす。
誰かに訴えたらまた、やり返されるという恐怖があるからだ。
私もその類で、マスコミや報道、世間に知られないように取り繕っていた。
今に思えば後悔をする。
暴力を受けた時点で、勇気を持ち訴えるべきであったが身内に話しても、
『恥ずかしい事だから誰にも言うんじゃないよ、」と言う意見に従った。
時は流れ、仕事に追われてやり過ごしてきたが、私は我慢の限界に達した。

そのことで沖縄のスポンサーや関係者に事情を説明することも出来ず、
多大な心配、迷惑をお掛けしたが、沖縄に戻ること事態が恐怖であった。
DVで殺されるより、自分で死ねばいいのだ、と思うほどに心は病んでいた。

離婚により、前夫から頂いたOKINAWA ROCKの女王の冠と
身体に纏った(喜屋武マリー)彼が作ったという人物、を剥ぎ取り
甲冑のような物から開放されたような気分で、
長い間苦しんできた心は、人生の≪新しい扉≫を開くことで次第に開放されつつあった。
喜屋武マリーwith Medusaは活動停止となり、メンバーはそれぞれの道を歩み始めていた。
私が戻らぬ人と成り、ボーカルを失ったメンバーに対して
非常に申し訳ない事をしたのだが、どうしても解決できない事柄が生じ
メンバーに辛い思いをさせた事を現在でも詫びるばかりであるが、
私が沖縄に戻れない理由も彼らは解ってくれていた。
私は自分の命を自分で守るしか出来なかった。

暴力さえ無ければ私は離婚などしていなかった。
それ以外はどんな状況にも耐える精神力があった。
暴力では何も解決できない。物事が悪化するだけである。
暴力を振るう人間は、これで相手は言うことを聞くだろうと考える弱い人間である。
だが、人間はそれぞれ心と言うものがあり個々の生き物だ。
相手のいいなりで自分の価値観が殺されて生きるのであれば
自身の心を閉じ地獄で生きるようなものだ。
新しい扉を開くことは多大な障害困難と闘うことにもなるが、
生きる勇気を自身で持つことで可能となる。
暴力は絶対に許されるもので無い。
大切な宝物を自ら破壊失う事になる。
DVを受けた人間は何年もの年月を超えても、そのトラウマを超えることが出来ず、
人間不信になり、自分自身を失い、それでいて死ぬこともできず苦しむのである。
体の傷は癒されても心の傷は永遠に残る。
多くの女性たちがDVに耐え苦しんでいる現状を知ると、胸が張り裂けそうだ。

舞台女優としての私の活動は上記の三作品で幕を閉じた。
舞台は、俳優座、宝塚 劇団四季 などに所属する俳優等が大部分を示す中で
ROCKボーカリスト出身の私が続けて行くには
よほどな異例な作品が公開されない事には私の出番という者は無かった。
舞台出演依頼は来たものの、登場人物1、2、などの配役で
ソロで歌う場面は無くコーラスが主であった。
舞台俳優らとはかけ離れた独特な私の発声、声が異常に目立つ存在。
見かけもやはり目立つ存在である為、段々と舞台女優の自分に違和感を
感じるように成った私は依頼が来ても自分にピタリと嵌る役柄以外は
出演依頼を辞退するようになった。
ミュージカル、ブラッドブラダースは私が出演した(1991,1992,1995)から
一旦公演が廃止後に復活、配役を変え現在2015年ロングランで上演されている。










  


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2015年08月07日

真実の叫び17 シャウトオブアジア

 シャウトオブアジア
舞台で良い作品に巡り合えず、暇を持て余した私は
東京で活躍中のROCKバンドやフュージョンバンドで
ゲスト参加として歌わせて貰ったりしていた。

ある日、バンドメンバーの仲間から 「ミュージックスクールの講師を遣ってみない?」
との誘いがあった。迷い無く遣らせていただきます。と返事、
洋楽担当ボーカル講師として、東京ミュージックスクールに6年間在籍した。
これからプロを目指す若いアーティストたちに、
洋楽という理念を指導、ボーカルレッスン、ステージ動作、作詞、作曲など、
朝9時~6時までというスケジュールでサラリーマンのような生活であったが、
明日を目指す若い生徒たちの希望という輝きとエネルギーが素晴らしく、
充実した日々を送ることが出来た。
マリー先生と慕われ、生徒一人一人が実に可愛く、
音程が取れなく歌えない生徒もいたりで
共に悩んだり笑ったりで、意外と講師に向いている自分も発見出来た。
教え子たち、それぞれの希望が叶えられた事を願っている。
東京で音楽講師として充実した日々に、運命と言う物が遣ってきた。
2003年韓国日本共同制作(BSフジ) アジアの歌への出演依頼だ。
(音楽を通してアジア人のアインディティーを語る番組)
番組はカンサネと言う韓国ミュージシャンのドキメンタリー。

出演依頼に又もや悩む私であったが、玄真行監督から
≪カンサネ≫の一枚のCDを手渡された。
韓国語で歌う彼の言葉など解らなかったが、≪ラグヨ≫という楽曲に魅せられ、
初めて聴く彼の歌声に涙した。歌詞の内容などまったく知らない
私の心を震わす彼の歌声。私はカンサネという音楽家に合って見たい
との衝動で堪らなく心が動きアジアの歌に出演した。

ドキメンタリー番組というのは台本が無いのと等しい。
筋書きはある物の現場の状況によってたいていは書き換えられる。
何度もドキメンタリーに出演した事がある私はその事を良く知っていたが、
この番組で故郷沖縄に戻ることになるとは思いもしなかった。
カンサネが番組の中で話す言葉、「僕が沖縄に連れて行ってあげる 」
(二度と故郷には戻ることは無い)と心を頑なに閉じていた私に
決心をさせたのは、私が涙して聴いた彼の楽曲ラグヨにある。
朝鮮戦争の時に逃げてきたまま故郷に帰ることができなかった
両親への思いを歌った詩、≪ラグヨ≫
私は母を想い故郷を想い涙していたのだ。
カンサネは既に私の心を未踏し(僕が沖縄に連れて行ってあげる)と話したのだ。
その言葉は彼自身が両親に伝えたかった言葉だったのだ。

私達番組ロケ隊は故郷沖縄那覇空港に到着
最初に私が行きたい場所へと向かった。
祖父母と暮らした日々、まりこーぐぁーが育った場所だ。
東側の海岸線を通り与那原辺を走っていると、≪沖縄そば≫と
大きく書かれた看板が目に入る。何とも懐かしい文字だ。
私達一向は沖縄そば屋で休憩をとる事にした。
久々の沖縄そば、東京でも何度も食べた事はあるが、
現地で食べる味には懐かしさが込み上げた。
そば屋さんで忙しそうに働く沖縄のおばちゃん達、
ウチナーヤマト口で賑やかに接待をしてくれていた。
私の事などもう誰も覚えてないだろうなーと思いながら
これからロケで向かう現場の打ち合わせをしていたところ
一人のおばちゃんが話しかけてきた。

「内地からテレビのロケですかー?沖縄暑いから女優さんも肌気をつけてねー。」と
その言葉に思わず、「私沖縄生まれだから大丈夫ですよー。」
と答えてしまった。
おばちゃんはびっくりした様子で、
「アイエーナー色も白くて標準語も旨いから内地の女優さんと思ったサー、」
名前なに?と聞いてくる.
「マリーです。」と答えた私に、「あの喜屋武マリーさん!」
「見たことあるって思っていたサー」と又もやびっくりした様子。
私は「いつもありがとうございます。まだ覚えて居て下さったんですね。」
とお礼を言い、「忘れるわけナイサー沖縄の有名人さー。」
とかいろいろ話してきたが、
久々の沖縄おばちゃんの訛った標準語に親しみを感じながらも
そうかー、もう私は本土の人に見えるんだ。と思え
何か居たたまれない気持ちがした。
私達は沖縄そば屋さんのおばちゃん達と大いに盛り上がり
サンピンチャを手土産に頂きそば屋を後にした。

久々の祖父母の家、今は誰も住んでなく時々叔母達が掃除をしたりして
古い家はまだ取り壊す予定も無くひっそりと建って居た。
あの頃のように、オバーやオジーもバーサンも居ない。
ガジュマルの木、パパイヤ、グアバ、山羊小屋、オジーのラジオ
みんな何処かえ消えて行ってしまった。

カンサネと私は縁側に腰掛け、私はあの頃の自分、
まりこーぐぁーの物語を話し始めていた。
照りつける沖縄の太陽、その下で真っ赤なあかばなーが南風でゆれていた。
お帰りーまりこーぐぁー、とでも言っているかのように、
あかばなー(ハイビスカス)は元気に咲き乱れまぶしく輝いていた。
アジアの薔薇アジアンローズ、私は沖縄のアンマー達をそう呼ぶことにしたのだ。
天からの祝福を受け沖縄の強い日差しの中堂々と花を咲かす。
赤バナーは、あの頃の女達、貧しさや悲劇と戦いながら、
健気に生きたウチナーの女達。私の心には一つの歌が芽生え、
カンサネと共にこの歌を完成させようと決意した。

私達ロケ隊は祖父母の家を出、母が眠る丘の頂に到着した。
丘から見渡すエメラルドグリーンの海は
小さいまりこーぐぁーが見ていた海、
あの頃と変わることなく美しく輝いていた。
母のお墓の前でアメージンググレイスを歌う目的で来たのだが
私は泣き崩れるばかりでもう歌えないと監督に訴えたが、 
監督やカンサネに励まされ、どうにか歌うことが出来た。
母は自分が死んだら地獄に落ちると死を怖がっていた。
その母の心を救うが為にアメージンググレイスを歌ってあげたかった。
母の心は救われたのだろうか? 
泣きながら歌う私の願いは届いたのだろうか?
帰りのロケバスで私は物言わぬ人に成った。

その翌日、基地の街金武、沖縄市のゲイト通り、パークアベニューへ向かった。
ミュージシャン自身の原点をもう一度思い返す為である。
私が目のあたりにしたのは錆びれた商店街、シャッターが下ろされ、
もうあのころの街は(米兵が居た頃)消え伏せてしまっていた。
その後、私はMEDUSAのメンバーと再会、当時の思い出話しに花が咲き、
メンバーと一日だけの身内ライブをしようと決定
ライブハウスを借り切りBURNING BLOOD の楽曲を演奏、
その模様はアジアの歌でも放映されたが
久々のメンバーとの対面、ライブで私は涙を流すばかりで
ちゃんと歌えていたか思い出せない。
最後の曲 SO LONGはこみ上げる感情で
ほとんど歌えなかった事だけが覚えている。
メンバーに別れを告げ、「再び沖縄には戻らないと思う」の私の言葉に、
ドラムのこうちぁんが言った
「俺が死ぬ時はLOVING YOUを歌ってくれ」、
と言い残したあの言葉は今でも忘れてない。
BURNING BLOODの楽曲で、彼の一番のお気に入りの曲であった。
東京の戻った私は、カンサネの故郷韓国へと向かい
私達はロケを終え、アジアのミュージシャン等と合流、
韓国で何万人の観客を収容する野外ライブを開催、
私がBURNING BLOOD の楽曲を韓国で歌いたいと
ギターの良明に電話で告げたところ、
沖縄から良明はPAスタッフを引き連れ韓国に駆けつけてくれた。
彼らのお陰で今までに出せないような奇跡の声で
あの日はシャウト出来たことを覚えている。
アジアの歌は≪シァウトオブアジア≫と題名を変え
ドキメンタリー映画が各地で上映された。
ロケが終わり映画発表も済み、音楽講師へと私は戻っていったが、
コザや金武の町の変わり果てた姿の衝撃が
頭の中に渦巻き焼きついて離れない。
次第に私は、沖縄に戻ろうかなーと考えるように成った。
アジアの歌、このドキメンタリー映画に出会わなければ
故郷に戻ることなどなかったかも知れない。

  


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2015年08月07日

真実の叫び18 ASIAN ROSE

Asian Rose

カンサネとの番組のお陰で、里帰りを果たし東京に戻ったものの
アジアのミュージシァン達との触れ合いの中、
自分の故郷への想いが、鮮明に浮かび上がってきた。
私が今まで歌うということで生きて来たならば、それは頂きものである。
コザの街からRockという音楽を頂き、私は生かされて居るのだと。
有れば、その町に戻り私に何か出来るかも知れない。
なぜかそのように考えるようになった。

沖縄に戻る事を決意、沖縄市パークアベニューに
娘と共にMarie Music officeを設立
同時にミュージックバーASIAN ROSEを開店 
本土からの観光客や地元の音楽ファンの交流の場とし、
基地の街コザの活性化を願う場所として活用したく、
私はMEDUSAのメンバーだった良明に声をかけ、
THE MARIE'S BAND を結成、LIVE活動を再開した。
音楽機材や洋楽に達者である息子に、
店の管理やBandメンバーのマネージャーをして貰った。
何しろ音楽環境で育った彼には
音を聞き分けられる優れた才能があり
THE MARIE`S BAND のPAエンジニアとして
最高のミキシングをしてくれる一員でもあった。

ROCK BAND、
PAエンジニアである人物に命を預ける。と、言っても過言ではない。
ステージの横でアーティストの為に働く舞台監督や
スタッフ等共々信頼関係も重要だ。
何万人もの会場でのステージでは
前から出るBANDのサウンドがどうなっているのか分からない。
そのためにリハーサルで音を調整、本番に備えるのであるが、
個々のBANDのサウンド、楽曲、声、それぞれの楽器の音色や癖、特徴など、
メインミキシング、モニターミキシングの腕に左右される。

私は得に自分達のライブの音作りを重要視する人であったので
時々我儘を言ってスタッフ困らせたものだ。
こんな音では歌えない、ギターのサウンドがイマイチ、ドラムがどうのこうの、など、
サウンドチェックの度にいろいろ指示する私はうるさい奴だと思われたが、
最高のサウンドで披露したかった私は常に頑固、
そのために自分の息子と言い争いをしたほどである。
息子は私好みのサウンドが理解できるようになり、
「命を預けるから頼むよ!」とステージに立った.

私には最高に頼りになる、PAエンジニアがもう一人居た。
それはMARIE WITH MEDUSA 時代から何千回のライブツアーに
動向した人物、下地君である。
彼ほど私の音の我儘を聞いてくれた人は居ないだろう。
ライブが終わった後に録音された私達のサウンドを聞き、
満足がいかず、彼に何度か怒鳴ったこともある。
それでも彼は笑顔を絶やさず私が求める音に努力、
私達のツアーも無事終わり成功できたのだ。

「エンジニアとは基本的な技術のほか、
設営(いわゆる仕込み)は深夜早朝に及ぶことが多く、
スピーカーや大型ミキサーを持ち運ぶため体力は第一条件である。
現場での音量バランスを適切に判断する感覚と、
トラブルの発生を未然に食い止めて、
起きたとしてもそれを迅速に解決できる経験とスキル。」

PA エンジニアの仕事を上記のように考えるが、一回だけの公演ではそれで良し。
長いツアーを共に遣って行くスタッフだと、信頼関係が一番の条件だと考える。
スタッフの努力とセンスによって生かされるROCK BANDの理念、
私は最愛にも最高なスタッフにめぐり合え、音楽を続けられたのだ。
17年ぶりの故郷での音楽活動は信頼関係で出来上がった。
THE MARIE'S BAND で、ローカルの音楽祭、イベントなどに出演する傍ら
ラジオのパーソナリティを勤めコザの活性化を呼びかけていた。
どうにかこの町を音楽で活性化できないものかと考えていた。
 
沖縄Rockの拠点地を維持して行く為
町にはミュージックタウンが建設され
大ホールでは様々なイベントが行われていたが
以前のように音楽で満たされる町ではなかった。
嘉手納基地のゲイトはすぐ側にあるが、街に繰り出す米兵は少なく
観光客がチラホラと通りを歩いて居ただけだ。
米兵が町に遣ってきて何か悪さをすれば彼らは外出禁止となり
米兵が落とす金も当てには成らなくなる。

そんな通りに私は店をオープン、人影も少なくひっそりと静まり返る街。
こんな環境では死活問題だと町の人は不安で居た様だ。
それでは、どうすればいいか?と商店街を経営する主達は
対策会議等で話し合いをして居た物の余り効果は無く
給料日に街へと繰り出す数少ない米軍にやはり期待をしていた様子だ。
週末だけ店をオープン、暇の日は閉めるという店舗がほとんどだった。
一方、町活性化対策で本土の観光客に呼びかけ
団体様基地の町コザ体験などもしていたようだが、
ゴヤ十字路メインストリートに建つミュージックタウン辺りが中心となり
町全体の活性化までは繋がらなかった様に見分けられた。

パークアベニューに構えた私の店は、と言うと米兵の客は無く、
久々私が沖縄に戻ったと言う事で店に訪れた方々は
地元のファンや本土からの観光客がほとんどであった。
久々のファンとの再開、私は店でライブをする傍ら、
カウンターに立ち、お客様の接待などで働いた。
音楽ファンがほとんどであった為、
壁一面に飾った洋楽アルバムを流しながら音楽会話が中心であったが、
町が廃れて来た どうにかできないものか?という会話も聞こえて来た。

店をオープン半年ぐらい絶ったある日、玄監督から私への電話だ。
コザの町でシァウトオブアジアの映画上映と同時に
THE MARIE'S BAND ライブを組み合わせたイベント開催の相談であった。
それは嬉しいニュースでもあり町の活性化に繋がると私は判断
直ぐに行動に移した。
私はそのイベントが成功すれば、コザの町が再び音楽の街と活性化を望み
スタッフ集めバンドのメンバー固めと忙しく働いた。
イベントは地元の皆様のお陰で大成功となりその後、
ローカルニュースなどで伝えられ
パークアベニューは以前よりも多くの人達が訪れるようになった。

人の縁繋がりと言う者は不思議なもので突然現れる。
運命の出会い≪池波志保≫がやってくるのであった。
私には行き先々で運命の出会いと言うものがあり、
その出会いによって何かが生み出されて行く。
私が考えるには波長が合うもの同士助け人が遣ってくる。のだと信じている。
私達人間生きていくには試練はあるが、
本人がそれを乗り越えようとすれば、素晴らしい縁が出来
決して耐えられない試練は無いのかも知れない。
必ずや誰かが遣ってきて道は開かれていく、それを信じて欲しい。

私の店にライブを聞きに来た美しい一人の女性
私は彼女が誰かは知らなかった。
アンプラグドライブが終わり彼女は私に話しかけてきた。
初めて出会うその美しい女性は女優の池波志保さんであった。
どうやらアジアの歌に出演した私を知っていて 
映画上映と私のライブを見に来てくださったようだ。
彼女からの私への想いが綴られた新聞紙エッセイをそのまま読んで欲しい。

《韓国のシンガー・ソングライター「カン・サネ」が各国のミュージシャンを訪ねて語り合うオムニバスで、
玄真行監督が選んだ日本のミュージシャンは「MARIE」
沖縄のロックの女王といわれたあのマリーだった。
カメラは彼女の東京での活動から里帰りまでを追いかけて、
懐かしい人々との再会や、
母の墓前で語る素顔のマリーを撮っている。
そこには、純真な少女と何かを乗り越えた熟女を併せ持った、
不思議な魅力を湛(たた)えたミュージシャンがいた。
映画上映後に、新メンバー「THE MARIEsBAND」のライブを観た。
ロックの女王健在、というよりパワーが増しているように感じたのは
精神的に加わった強さゆえだろう。
コザのマリーの店で週1回やっているライブを聴いた。
メデューサの頃から一緒のギタリスト「YOSHIAKI」のアコースティックギターで、
哀(かな)しくしっとりと語り
激しさを内に込めて歌うマリーは、歌手というより女優のようだった
マリーが最後に歌った明るいのに何だか切ない曲、
彼女のニックネームでもあり店名にもなっている『ASIAN ROSE』。
映画の中で聴いたはずなのに違う曲に感じたのは、
アレンジだけでなく彼女自身の望郷の念と母への想いが込められた歌詞のせいだ。》

「この曲、CDにするんでしょ?」「まだ決まってない…」
「私、作ろうか?」「うん!」。これだけの会話で、
初対面の同じ世代の女の運命が重なった。
(池波志乃、エッセイスト)

それからと言う物わたし達は直ぐ様行動に移した。
志乃さんのプロデュースでレコーディング開始、
カンサネが作ったオリジナルをベースにアレンジを加え
3曲入りのCD ≪ASIAN ROSE ≫2006年発売が完成した。
志乃さんのプロディースには素晴らしい提案があった。
その頃巷では日本語によるラップ(言葉のリズム)というのが流行、
バーラードであるASIAN ROSEの楽曲に太陽と希望をイメージさせようと
ラップを取り混ぜてみようと言う事だ。
私達は地元で活躍中のラーパー、知花竜海を採用、同時に地元バンドの
太陽風オーケストラのメンバーからキーボード松本靖とパーカッション宮良和明を加え
若い人達や大衆に受け入れやすい音に仕上げた。

同時に志乃さんのアイディアはROCKボーカリストカラーの
私のイメージを薄くし、新しいサウンドを引き立てようと、
アニメを取り混ぜたDVDを完成させた。
初完成DVDを志乃さんが私に見せてくれ「どう?」と聞いてきた。
出来上がったビデオ、たった5分間ではあるが、
見終えた私はその場で泣き崩れてしまった。
アニメを交えてダンスを踊りたくなるような太陽があふれ出す明るい仕上り。
私の伝えたい思いが見事に表現されたビデオであった。

感動と共に志乃さんの素晴らしい観察力に感謝したのである。
私が書いた歌詞は単純で心の奥深くまで見通すには事足りない。
それを見通し見るもの聴くものに伝えようとする池波志乃さん。
人の心を知ると言う才能の持ち主が、私の目の前に現れたことで
これからは心の間々自分自身の楽曲を書いていこうと希望が沸いてきた。

その後彼女は旦那様である中尾彬氏に協力を依頼、
ナレター役で登場してもらい宜野湾市コンベンション劇場≪亜細亜の薔薇が帰って来た≫
のタイトルを打ち出し、コンサートを開いた。
1000人の観客で賑わったそのコンサートは、私の新しい旅立ちでもあった。
新しいMARIEカラー像を産み出すため、太陽風オーケストラ、 知花竜海をゲスト出演
Rockボーカルのカッコ良さ情熱 内に秘める歌心、を演出一つの物語のように展開される、
満足溢れた素晴らしいステージングであった。

コンサートは大成功に終わり、
志乃さんとこれからの展開を広げていこうと言う最中に
突然、私達に悲劇が起きた。
志乃さんがフィッシャー症候群という難病にかかってしまったのだ。
病気のため沖縄から遠のいていった彼女と私は、電話で何度か連絡を取り合っていたが
病状は酷くなる一方で、志乃さんの回復を祈るばかりであった。
沖縄で知り合えた最後の砦とも言えるプロデューサを失ったことで
次の新曲を発表する気にもなれず、時はそのまま過ぎて行った。

彼女との音楽制作は残念ながら CD ASIAN ROSE この一枚で終わったが
彼女はこの一枚の為に私に出会い、去って行ったのだ。
何とも不思議である。
ASIAN ROSE は池波志保の作品でもある。
彼女が病から回復して元気にしていることを後に知らされた私は、
良かったっと 、すーっと胸をなでおろし大変喜んだ。
志乃さんから頂いた縁に感謝、イベントやラジオに数多く出演
少しでも多くの人に浸透できればと思っていたが、
本土のファンや地元のファンの方々からこんな意見も聞こえて来た。

「(沖縄ROCKの女王に相応しくない曲だ。
そんなのが聞きたくて此処に来たんじぁない。がっかりだね。」と、
様々な意見が飛び交い批判されたが、
オキナワンロックの冠を自ら降ろした私には一向に気にならなかった。

米軍と戦うためのシャウトなどもういらない、
沖縄の動乱期を生き抜いてきた人間には葛藤すべき人生があるが、
重荷を下ろす自由も与えられているのだ。
私はその曲に心の葛藤など背負わしたくない。
母や祖母の人生の重荷を下ろすべきして現われた歌。 
平和な心に満たされて自身の花を咲かして欲しい.



https://www.youtube.com/watch?v=oF-NDNr8xr8










  


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2015年08月07日

真実の叫び19, 課外授業ようこそ先輩

 課外授業ようこそ先輩

2007年 ≪課外授業ようこそ先輩≫の出演依頼が来た。
え、あの有名人が出る番組ですか?第一線で活躍中の著名人が出る番組ですようね?
私は何かの間違いではないかと電話口で話したが、如何やら本気の出演以来であった。
番組の内容は?と聞くと(母校で授業をする)、
と、簡単な説明だけで台本は無い、マリーさんの好きなように、とか言っている。
何の授業をすればいいのか?確かに東京で音楽専門講師の経験があるものの、
小学生の頃の母校に戻り三日間授業をする?
一時間だけなら、講義とかも思いつくが、さて?
どうしようかと悩んではいたが、番組はNHK全国放送であることに、
コザの町の宣伝が出来る=活性化。
私は迷いながらもそれでは出演させていただきます。と答えた。

番組から送られたDVD(放送済み)を参考に対策を建てた。
三日間の授業で何かを作り出せばいいのかー、と考えた私は、
39人の生徒でバンドを作り
パークアベニューでストリートライブをやろう。と決定はしたが、
私が歌うのでは無く生徒のバンドのライブだ、
これから曲作りは到底無理、それも39人の大人数バンドだ。

NHK番組制作テレコムスタッフは間もなく来沖、
Asian rose の店にやってきた。
スタッフの方々と挨拶を交わし早速と打ち合わせに入いる。
制作の西野さん、「マリーさん、どうですか?明日からロケは始まりますが、
何か見つかりましたか?と話してくる。
私は夜も寝ず考え出した案を話した。
39人の生徒たちとストリートライブを遣ること、
曲作りが間に合わないことで、
私の楽曲、ASIAN ROSEをベースに
生徒たちが歌詞を付けていく。所謂替え歌とアレンジ。

台本が無いままに進むドキメンタリー番組には慣れては居たものの、
今回は子供達相手だ。
それでは明日から始まるロケに乾杯といいながら、
スタッフの方々はバーのお客と成って泡盛を飲み始めた。
お話をしながらいろんな番組エピソードなどを聞かせてもらったが、
意外に気さくなテレコムスタッフ、私はすぐに溶け込むことが出来た。
それじぁー朝6時に迎え行きます、
とスタッフの皆さんはホテルへ戻って行った。
もう時刻は夜中の3時であった。
店の片づけを終わり私が自宅へ戻ったのが午前4時、
結局その日のロケは睡眠無し、シャワーを浴び、
さー頑張ろうと気合を入れ、迎えを待っていたのだ。

おはようございます!というスタッフから元気な声でスタート
ロケバスで、学生の頃いじめられた経験など生徒たちに話してほしい、
と聞いた私は、あぁー、そういうことなんだ、虐めね、と。
そういう事を番組は取りたかったのだ、と思ったが、
引き受けた仕事を精一杯頑張ると自分に誓った。
わたしたちは母校、諸見小学校へと向かった。
生徒が朝、通学する通りからスタート、
「あーここを歩いて学校に通ったなー、懐かしい!」とか
言いながら、番組の収録が始まった。
先に校長に挨拶を終え、私たちは6年生のクラスへ向かった。
番組収録の事は受け持ちの先生からすでに報告済み、
教室では39人の生徒たちが、私が来るのを待ちわびていた様子だ。

おはようございます。と黒板の前で挨拶をしながら
私の小学時代の話を初めた処、
日本語上手いねー、とか、小さな声が生徒たちの間から聞こえて来た。
はい、マリー先生は 見かけは外国人ですけど、
君たちと同じ沖縄生まれの日本人です。
と私は話し始め自分の見かけからして、虐めにあった経験を話し始めた。
39人の生徒たちは真剣に私の話を聞き始め、
クラスにいるフィリピンのハーフの女の子は
私をじーと見つめていた。
女の子の澄んだ瞳は何か私に訴えかけているようにも感じた。

それでは、先生が君たち皆と作っていきたいものがあります。
と私は話題を変え、生徒たちは えー、なに?なに?と目を輝かせた。
皆でバンドを作りストリートライブをやりまーす。
賛成の人、手を上げて、という間もなく
先生、面白そう、やろう!やろう!と
一気に風景が変わり生徒たちははしゃぎ出した。

まず、この曲を聞いてくださいね。
と言いギターの良明を待機させていた私は
アコギの演奏でASIAN ROSEを歌い、それから歌詞の説明などを終え、
ラップバージョン(知花龍海)とのコラブDVDを見せた。
そのDVDがアニメタッチだったこともあり、
子供たちに気に入られたようだ。
何とか行けるぞ、と私は思い、続いて生徒たちに、
自分の今の正直な気持ちと将来何になりたいか
という作文をあしたまでに書いてきてください。
と宿題を出した。
私は短時間でバンドを仕上げる為の考えが既に有ったので、
どうしても生徒たちの、正直な今の気持ちによる作文が欲しかった。

翌日、クラス全員が見事に宿題を提出、
これから始まる何かに興奮気味だ。
作文を書いてもらった一人ひとりの生徒と話をしたく
一人ずつ名前を呼び生徒の書いた作文の中から
本当に今思うことはなに?と聞いた。
子供たちは私に素直な言葉で返してきた。
現在悩んでいることや、虐めがあったことや、大人になったらこんな事をしたい
など、私に心を開いて思うがままに話してくれた。
なんて、かわいい子供たち、純粋で清らかで、
私はみんなの正直な心をノートに書留めてASIAN ROSEのメロディーの歌詞とした。

これがみんなの心だ、よし!歌詞はこれで決まったと。
クラスみんなの歌が出来上がった。

これからが大変だ、39人の生徒たちのバンド編成、
私はクラス全員に話した。
「音楽やダンスで自分がこれは遣れるというものに手をあげてね、」
まず、ボーカル、ハーイ、ハーイ、と元気に答えてくる。
次にラップ、男の子たちはむつかしいラップに挑戦しようと
何人も手を上げて来た。
それからダンス、三味線、太鼓、キーボード、
次々にバンド編成が決まりクラス全員が参加することを望んでいた私は
本当にほっとし、喜んだのであった。

沖縄の熱い太陽の下でエイサー太鼓を曲に合わせて一生懸命練習する子、
曲に合わせて振付を練習する子、
歌を何遍も歌いメロディーに合わせ、練習する子
むつかしいラップをかっこよく出来るように練習する子、
私達は限られた時間の中で一つになり、皆で頑張った。
余りの沖縄の暑さで倒れる子もいた 、
すぐに元気を取り戻し、私に心配をさせまいとマリー先生、
僕大丈夫だよー、と言ってくる。
何しろ二日後に迫るストリートライブ、
クラスの全員が成功させるぞ!との意気込みがあった。
私はその子ども達が非常に愛おしくなり、
まるで我が子のように思えた。
さぁー、ストリートライブの当日が来た、

学校で最後のリハーサルを終え、私たちは私の店がある、
パークアベニューへと向かった。
店のすぐ前でのストリートライブ、
私は自分のバンドのスタッフに頼みPA 機材のセッティングをしてもらい
本番まで、店の中で休むようにと生徒たちに呼びかけた、
生徒たちで満杯になった店内、暑いから冷たい飲み物遠慮なくどうぞ、
という私の声にカウンター席に座る男の子達は言う。
「マリー先生の店、いい匂いがする、僕まだ子供だから、
ビール飲みに来れないけど大人になったら絶対にマリー先生に会いに来るね、」
とか、可愛いことを言ってくる。
本番の始まる寸前 子供達の衣装を直してあげたりして、緊張ぎみの生徒たちに、
サー、行ってらっしゃい!と声をかけ、
「先生見ててよ!」と大声で元気よくストリートライブが始まった。

本番に緊張したせいか、歌詞を間違ったり太鼓の音がバラバラになったりで
私は少し心配になったが、
生徒たちは自分の花を思い切り咲かせ生き生きと輝いていた。
素晴らしい生徒たち純粋な笑顔と穢れのない瞳の輝きは
私に新しい感動を与えた。
彼等と会えた事で自分自身の子供の頃をおもった。
自分から捻くれ、私の気持ちなど誰も解ってくれないと、友達を遠ざけた事、
この子たちのようにもっと勇気を持つべきだった。
課外授業ようこそ先輩は 放送時間の都合でいい場面が多くカットされたが、
番組放送では見られなかった子供達の姿を
私は見ることが出来ほんとに幸せであった。

この子達が未来の沖縄を明るくしてくれるだろう、
子供達に出会えたことに感謝感動の涙を流す私であった。
先生として生徒の素直な心に触れ合った三日間は実に美しかった。


  


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2015年08月07日

真実の叫び20, SO LONG 沖縄

SO LONG 沖縄

パークアベニュー通りにMARIE`S MUSIC BAR ASIAN ROSEを
オープンしてからというもの私が店を空けることは一度も無く、
カウンターでお客様の接待、カクテルを作ったりおつまみを出したりで働いた。
店に来るお客様の中には相当お酒を召し上がるお客様も居たりして
お酒を飲めない私には苦手な部分でも有った。
酔っ払い相手にまじめに話を聞き辛い思いをさせられたのも事実だ。

ある日4~5人の叔父様たちが店に入ってきた。
私は良くいらっしゃいました。お飲み物は何にいたしますか?
と早速話しかけたが、いきなりナイチァーアビーシ、(本土のイントネーション)と、
不機嫌な顔をされ、ウチナーんちゅアランバー?
(沖縄の人じぁないの?)とか言い出した。

その白髪混じりのおじさん達は、どうやら私の中学の同級生らしい。
おぼえているかー?と、同級生らしき人に聞かれたが、
思い出せない。「同じクラスだったのに覚えてないわけ~、」と
「中学の時、頭も悪いムッスとした子だったような~、誰ともしゃべらんし、
居るか居ないかわからん子でさー。」

ヌーンディキランヌーガ(出来の悪い頭)が、何で有名人成っているわけ?」
と、泡盛を飲みほしながら、私をからかい始めた。
男というものは、いつまでも やんちゃなガキだ、と思いながら、
「確かにおっしゃる通りですね」。と
私はカウンター越しに笑顔で答えたが、同級生の一人、一人を
思い出せない事に悪い思いもした。
学校内では、たった一人の親友以外まともに皆の顔を見た事が無かった。
学校の授業はいい加減にしていた。滅多にクラスの子とも話さなかった。
誰からも相手にされないと、私自身が捻くれてそんな態度をしていたのだ。

「高校、行かないでホステスにでもなったんじゃないかなー?
って、思っていたさー。」
叔父様たちの会話を笑顔でそのまま聞いていた私。
だが、ホステスに成ったんじぁないかなー?と言う言葉と
その後に続く彼らの会話に少し腹が立って来た。
ホステスや水商売という仕事がまるで、駄目だという会話に腹が立ったのだ。
職業がなんであろうと、あんた達には関係ないでしょう?
ホステスで何が悪い?と言い返してしまったのだ。

職業的人種差別の問題で嫌な会話がしばらく続きかなり反撃をした私に、
「ワッターやきゃくどぉー(うちらは客だよー)
なんで、酒飲みに来て怒られんといけん?、」と言われ
「すみません、言いすぎました。」と素直に謝りはしたものの、
お客様商売の大変さも身に染みた。
その後しばらく、その会話は途切れ、
お客様相手の商売だと、反省したばかりの私は思い切りの笑顔で話した。

「中学生の時ねー、スチワーデスに成りたいなーって考えているときがあってね、
高校卒業じぁないと駄目じゃない?
でもお金なくて、アルバイトしながら高校通ったわ。」
と話す私に、

「ヤーヤ、わらーすっさー」(笑えること言うね)と、一気に泡盛を飲みほし、
「ぬーんでぃきらんぬーぬ、ひんすーあめりかーがスチワーデスないるばーいひやー!」
(頭悪い、貧乏アメリカがスチワーデスには成れるわけないでしょう。)
と、言い、大笑い(もーおわりだねー、喜屋武マリーは過去のユー名人だからさー、」
「も~オバーだし、オバーがなんにもできないよ~、だから沖縄にもどったんでしよう?」
「おれの愛人でもなるかー、?」と、ホザク、大バカ野郎酔っ払いの会話に
さすがの笑顔も無くなり、真面目顔で話した。

有名人の喜屋武マリーは、もういませんよ!私はマリーと言う一人の女です!
と、またもや言い返してしまった。が
「何言ってる!ウチナーが嫌で出て行ったキヤンマリーだろうー!」

隣越しでその会話を聞いていたお客様、酷い会話に居たたまれなくなったのだろう。
「いやいや、その言い方はひどくないですか?」と、私を庇ってくれた。

「やーや、ナイチャーだろうー、お前に何が分かる?ヤナ ナイチャーグァーは帰れ!」と、
暴言を吐く。
今度はナイチャー、とウチナーの差別争いになってしまった。

「ヤナナイチャーって言わないでください!本土からの沖縄移住は本人の自由です。」と、
私は遂にその酔っ払いおじさんたちに怒ってしまった。
その後、「なに!お前はヤナナイチァーの味方かー!」と反撃されてしまったが、
ウチナーんチュの誇りを持つ人間には何を話しても反感されるだけであった。


私に関しての批評が、沖縄を離れている間にいろいろ言われたのであろう。
かつて沖縄の宝と言われた人物はもはやゴミのような物なのだ。
一度嫌な噂を立てられるとそれが真実のように、何倍もと膨れ上がる。

ミュージシャンを商品やモノのようにあつかう、
飽きればすぐに捨てたり見向きもしなくなる、
低評価や批判も平気でする。生身の人間ならたえられないような
商品あつかいや中傷もされることもある。
ほかの人の嫉妬や憎悪、敵意も向けられる。
マスコミのスキャンダルはその増幅装置で誤った情報が真実として受け止められる。
一度有名人に成ると、もっともっと成功しなければ、という現実があり、
もう、有名人ではありませんから、からかうのはやめて頂けませんか?と
何度も言いたかったが、それも言えず黙っていた。

「どこのマリーか分からん、昔ローズマリーってストリッパーがいたよなー、
あれかー?」とか言って大声で笑い出す親父たち。
もう相手に出来なくてACDCのHIGHWAY TO HELL を大音量で流し
会話が聞こえないようにしてやった。
酔っ払いとの会話、に本気で怒った私であったが、
今あの頃を思い出すと異常におかしくて一人で笑っている。
それは、喜屋武マリーと言う人物から離れた場所に居るから笑えるのである。
私は一人の人間で在りたかった。

久々に戻った故郷、、懐かしい場所、再開、また此処で生きていくことを決心
バーのカウンターで接待業をした者の、
本土のお客様と仲良くすると、文句を言ってくる地元の年配組。
沖縄一の嫌われ者、沖縄を裏切った女などと、私を非難するお客、
昔、有名人だったよなーと、からかう地元の人たちに疲れるバーの経営でもあったが、
ずーと変わらず私を応援してくれるファンとの一人ひとりと会えた場所でもあった。
ASIAN ROSEを閉店した後も、純粋に私を応援してくれて
遠くからわざわざ店を訪ねてくるお客様には、申し訳けなくて心が痛む。

有名人と言う物は、一度も会ったことのない人間にすら、
自分のイメージがすでに伝わっている。
自分像をその人間に伝える前から出来上がっている。
話したこともないにも関わらず、多くの人間は自分に接するときに
この人はこういう人間であるという非常に強い先入観を持って接してくる。

BARのカウンター越しに話す、お客との会話はそう言うふうに聞こえてきた。
昔、有名人でしたよね、から会話が始まりあの時はこんなであんなので、
会話に苦い思いでも蘇ったりして、辛い感情が押し寄せたりもしていた。
お客様の接待ではあるが、一人ひとりのインタビューに答えるような
妙な気分でもあった。

沖縄で暮らすのは無理なのだ、
沖縄を捨てた女と言われた過去の有名人
その課題に一生付きまとわれ、
忘れてしまいたい過去が再び蘇るのである。
マスコミの力で有名人となり成功というものを手にするが
一方で非難を浴びせる人達もいる。
その場から逃げてしまいたい。

商品であった有名人から今の自分自身に変わろうとするが、
作られた人物を塗り替えるには、困難と言うものが沖縄にあった。
直線的に変われない自分自身。
迷いながら、現実のしがらみに絡めとられながら、
昔の自分の愛着からも離れられず、プライドも捨てきれず、
どうにか自分像を変えようとしていた。  
地元の人達に道でばったりあって、声をかけられ、有名人の顔をするのも疲れた。
何か失敗でもすれば、大事になり、皆から指を指される羽目になる。
世間あっての有名人なのだから、責任は重い。
沖縄というちいさな島だから目立つものは鍼を打たれる。

≪この顔が目立たないところへ行こう≫
歌なんかもう止めればいいのだ。
世間から消えれば思い悩むことも無い。
沖縄という美しい島、ここには私の居場所は無い。
幼い頃思っていたことを思い出した。
やはり、私は目立たないように生きていこう。
母の言ったとうりだ。身を隠すが良い。

やはり故郷に戻るのは無理であった。


ASIAN ROSE のカウンターで接待をしていると
やはり混血という血の生か?純粋のウチナーンチュに拘る人々.
多少ではあるが、又しても虐めにあったような気がした。
≪課外授業ようこそ先輩≫で子供たちから勇気を貰ったものの、
私は母のように弱い。身を隠してしまおう。
そして、私は再び沖縄を離れ旅に出た。

自身の旅は、自分がミュージシャンで有ったことや、
これまでの生き方、これからをどう生きていこうかの課題であった。
私の本心は歌を止めるということが恐怖であり、
生きるか死ぬべきかと、
自殺願望と生きる勇気が行ったり来たりで精神状態を保つのに必死だった。
なかなか決着出来ず揺れ動く自分自身、その迷いを断ち切るために、
数々のローカルバンドでもう一度歌ったりもしていたが、
かつて、米軍基地からもらったオキナワンロックと呼ばれる
クラシックロックを歌う事にも苦痛を感じた。
もう、歌を唄う気にも成れず、私はどんどん音楽から心も離れて行った。

沖縄ロック創造主が60歳、70歳を過ぎて現在でも誇りを持って
ライブを披露する姿が目に浮かぶ
ラスト侍のように自画自賛で彼らは散って行くのだろう。
彼らは言う。わったーウチナー≪「我が沖縄魂。≫ 
オキナワンRock創造主達の名誉と生きた証であれば其れで良し。


私はもう直ぐ60歳を迎えようとしていた。
今までの音楽人生に区切りを付け、悩むことなく人生をのんびり過ごしたいという心と、
ミュージシャン魂と言うものが交差、一人で物思いに耽る日々が続いた。
娘は言う。
「ママ、もうステージで歌わなくて良いよ、充分歌って来たのだから。もう、良いよ。」
娘が話す言葉、母が私に言った言葉に思えた。
「歌う事で苦しむのであれば歌う事を止めなさい、
貴方の歌は何かと戦っているようだ。」
私の歌は生きるための戦い、自身のアイデンティティの歌であった。
「もう、ラストシーンを終わらしても良いのではないですか?」

沖縄を離れ、歌から離れ、一人の女性として生きた。
時は過ぎ、歌わなくなって、年月は過ぎていった。
まだ、生かされている事に感謝、
もう、Rockミュージシャンであった自分にしがみ付くことなく冷静である。
新しい場所で、素晴らしい友人達にも出会えた。
湧き水は溢れることなく、私の心を満たしている。
私は穏やかな心で、大地に立って、しっかりと生きている。

喜屋武マリーと言う人物は人生の1ページの物語であった。
沖縄の歴史の中に記録が残るのであれば、1ページ、ほんの2~3行で充分だ。
私は有名人でも何でもなかった。
沖縄という小さな島でその気分にさせられていただけだ。
沖縄の為にと後世に残す偉大なことを成し遂げた人物でもない。
≪沖縄の戦後困乱の時代に歌うために生まれて来たような混血シンガー≫
それだけである。

今までの過去を振り返ると、悩んで葛藤した自分が、けなげで可愛いく愛おしい。
やっと自分を愛することが出来た。人間に一番大事なこと自身を愛し許す事。

私は歌うことで、素晴らしい人生を歩んで来た。
喜び、悲しみ、痛み、葛藤、挫折、希望、欲望、孤独、、、、
まだまだ、多くのことを学んだ。
多くのファンに愛され、応援され、支えられ、素晴らしい友人達にも出会えた。
業界の方々にも大変お世話になり、私の事で一生懸命働き、親身に接してくれた。
私は沢山の人から愛され幸せな人間だった。

私の人生はやがて冬の到来となる。
愛する娘、愛する息子、愛する孫達に囲まれ、
笑顔の可愛い、優しいオバァちゃんに成りたいものだ。

ロッキングチェアーにすわり、昔、昔、あるところにねー、、、と孫達にお話をしよう
笑みを浮かべて静かに幕を下ろそう
エメラルドグリーンの海へアッシュとなった私を撒いておくれ、風のように去っていこう
ボーダレスの
海原で永遠の旅へMY LAST SCENE SO LONG 沖縄




  


Posted by Asian Rose Marie at 01:18Comments(0)kyan Marie 自伝

2015年08月12日

真実の叫び  終焉 無常の真理

真実の叫び

終焉、 ≪無常の真理≫

自伝を書くことで自分の正体、アイデンティティーを捜したが、
私は喜屋武マリーというRockミュージシャン、ウチナー生まれの混血児
それだけの器で生きていた一人の人間だった。
『生まれる場所が選べない人間』と冒頭に書いたが自分自身で母体を選んだのでは?と。

ナイチャー?ウチナーンチュ?アメリカー?広い世界を見よ
美しい島沖縄、母が愛した沖縄、恋しい沖縄、

小さな小さな沖縄で差別や 虐めから開放されたく、
自身の叫びがシャウトとなり、ボーカルを武器にし、
自らの存在を確認していただけだ。




無常に苦しむのであれば宇宙の真理を見よ。
真理が無常に変化するのであれば
無常を受け入れ自身を開放し、すべてに感謝することで心が平和となるであろう。


書き足りないものがまだ心に伏し撒くが、躊躇する。
いつか自分の一生が閉じられる日がやって来る。
すべては無になり空となる。

嫌な出来事を思い出し書くことで、苦しんだ。
良い出来事を思い出し書くことで、喜びを得た。

人生とは自分の思い通りには決して成らない物だ。
それでも人間は健気に生きていく。
過去に起きた悲しみや悲劇で人は人を許し慈しみ優しくなれる。

生きることは試練が付き物
試練に耐えることも大事だが、逃げることも大事だ。
逃げて又戦えば良い。
誰もが言う。「自分が選んだ道だから自分の責任だ。」
間違いの選択をする人間はやり直しが出来ないのだろうか?
そうであれば、生きていることは残酷な物だ。

その時よかれと選択した道を引き返し、新たな道を見つけても良いではないのか。
もう一度、戦い生き延びる。
ひとつ、又ひとつと乗り越えて生きることに意義がある。

自由に生きると言うことほど難しいものはない。
責任と自由は勇気ある覚悟が必要である。

人間は、一人では生きられないから、厄介なのだ。
それならば、お互い様で苦しんだり喜んだりして生きていこう。

自分を許し他人を許す事は、ウチナーんちゅが言う 『命どぅ宝』の如し
自分自身の心を守る真実の生き方が出来るかもしれない。

宇宙に生きるちっぽけな人間模様、様々な葛藤で生きるより
ヒージャーやーのヤギさんの
「なんでもないさー」精神でのんびりと生きるが良い。

何も思い悩むことなど無い。
自分を責めず、考え過ぎずいつかは闇も光となる事を信じよう。

生を受け、在るがままに生かされていることに喜び
真実に誠実に感謝で生き人生を楽しむ。

リーインカーネーションというものがあるのであれば、
その事だけはしっかり憶えておこう。

もう、二度と叫ばない、もう、二度と音楽を武器とせず。
自身のアイデンティティー≪まりこーぐぁー≫に戻り風のように自然体で生きていこう。
  


Posted by Asian Rose Marie at 00:41Comments(14)kyan Marie 自伝